表面上は平静を保っている(少なくとも坂井悠二にはそう見えていた)アーチャーだったが、実際に平静かと問われたならば、それは否と言わざるを得ない状況だった。即ち、動揺していたのである。
 坂井悠二の母、千草の後に続き、今回の主たる坂井悠二の後ろではなく、前にいるアーチャーの顔は、唇を真一文字に結び、無表情にも見える。すくなくとも、アーチャーの後に続く悠二が見れば、冷静である、そう思ったかもしれない。
 しかし、この表情はアーチャーが自身の感情を押し隠すための表情である。
 アーチャーがこの姿になってから、たびたび無意識に感情が表出する、(特に表情に)ことをからかわれた為、その結果としてのものだった。
 これは、もはや習慣と化しているようなもので、そのせいか長い付き合いになればなるほど、その表情を目にする機会は多くなる。もっとも、長い付き合いの者には、その表情こそがアーチャーの感情を示すものと受け取っているため、あまり役に立っているとはいえなかったが。その唇の結び方から、眉のより具合などから、何かしらパターンさえ見出している者もいた。
 だが、少なくとも初対面の者や、短い付き合いの者に対しては有効だった。そして、今回の坂井悠二に対してもそう、働くだろう。
(何故、こうも簡単に私は従ったのだろうか)
 と、真実動揺しながらもアーチャーは自問する。
 確かに、自身の感情の揺れ幅は、かつてに比べてはるかに大きく、制御できない部分もある。
 それでも、自身のその状況に甘んじていたわけではない。最初の方はともかく、修練を重ねた今の自分には、それなりの自信があった。しかし、最初の頃を当てはめても、今回のように、ほとんど無条件で相手に従ってしまったことについては、記憶の中に存在しなかった。
(――何か、どうしようもなく、力ではない、抗いがたい気持ちだった)
 と、考えるに、まったく不快感のない、ただ不思議が残る気持ちを、反芻しながらも疑問に思う。
 しかし、そんな誰にもその表情を見られることなく、考え込む時間も大してあるわけではなかった。
 つまり、その終着、部屋を出発して、目的地たる居間に到着したわけである。
「どうぞ、お掛けになってくださいな」
 アーチャーのために椅子を引きつつ、笑顔を向ける千草に対して明らかに、本来の感情を表情に表して。まるで恐る恐るするかのように頷き、椅子に腰掛けた。彼女を知る人がそれを見れば、随分と驚いたであろう――それくらいに動揺を表していたのだ。
 もっとも、坂井悠二には別段、不思議に思うはずもなく、だが緩慢にアーチャーが座った席とは違う、自分がいつも座る定位置に腰掛ける。
「母さん……」
そして、背を向けて台所へと向かう千草の背に、僅か咎めるような、諦めにも似た声をかけた。
(母さん……母、親。そう、か。そう、なのか……?)
 改めて、坂井悠二の口から発せられた言葉。その言葉を、その言葉の意味を、アーチャーは悟った。
 アーチャー、つまり衛宮士郎。その家族とは、かの聖杯戦争から数えて十年前。四回目の聖杯戦争の最後の戦いによる、大火災によって死別している。その後、衛宮切嗣に引き取られることになる。
(確かにキリツグ、爺さんは父と呼べる人だった)
 だが、けっしてそれは母ではない。長い時間をともに過ごした、にぎやかな女性も、姉を感じさせることはあれ、明確に母を感じることはなかったのだ。
(そう、驚くほどに、多いとはいえない友人知人との関係を思い出してみても、母を感じさせる女性とは出会っていない)
 改めてアーチャーは、不審な訪問者とも呼べる自分に対して、何故かもてなそうとしている千草を見つめる。
(その所作、いやその身すべてといってもいいのか。感じさせる包容力は、たしかに母としての姿だ)
 それは、決して自分に対して指向するものではないとしても、滲み出すそれはアーチャーには避けうるものではない。
(まさに、私が、本当の本当に、心の奥底に眠らしている、その感情を、無意識にでも感じさせられる、わけか)
 もはや、ほとんど思い出すことすら不可能な、ただ感覚として覚えている安らかさ 
「はい、どうぞ。遠慮しないでね」
 差し出されたココアを受け取る。
 真白いカップに、ココアの色がよく似合っていた。
 時節は春(居間までの短い道のりの途中で、話に出てきた)の夜。暖かくなってきたとはいえ、時によっては寒さを感じることも少なくない季節だ。
 その中を、それも二階の窓から訪問した。しかも、千草から見れば息子と同年代の少女(アーチャーが、万が一自分が男だと主張したとしても、少女にしか見えない)が暖かさを得るには少しばかり不似合いな格好でやってきたのだ。それを含めての、このココアだろうと考えたが、それにしても、自分が千草に対して見せている自分の格好が、少し、いやかなり恥ずかしい。
 こちらに突然現界した際、アーチャーの意思に関係なく、その姿は戦闘のための、つまり武装した現れたわけだが、その実鎧の下に纏っているものは、所謂ところのドレスというものである。確かに、この体のオリジナルであるセイバーも、そういう服を着ていたし、自分の今のそれと比べても、白と青のそれは美しかったし、似合っていた。そして、おそらくだが、自分も似合ってしまっているのだろう。
 しかし、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「ええと、アーチャーさん、でいいのかしら」
「えっ、ああ、はい。その名でかまいません」
 正面に座る坂井千草と視線と合わせるために、ココアを凝視していたアーチャーの顔が上がる。 
「いえ、それが本名というわけではないのですが、皆からはそう呼ばれていたので。できれば、そうよんでいただけるとありがたいのですが」
 普段であれば、もう少し可愛げなく発したであろう言葉も、今は柔らかくなっている。その事を自覚しながらも、どうすることもできない。
 本当のことを話すわけにはいかない。そのことに関しては、間違いないことである以上、話すことは限られている。
(それでも、あまり嘘は言いたくない……)
 そんな風に考えていた。
 とはいえ、あまり自身の正体等に関することは聞かれず、どちらかといえば世間話の類に近いことであったことは、アーチャーにとって僥倖だった。
 そのため、どこか緊張にも似た硬さも取れ始めた頃には、いつも通りの、ランサーなどに背伸びしていると形容されてしまった話し方もたびたび飛び出していた。
 会話それ自体、坂井悠二に触れることなく、見た目女二人で、少し賑やかにもとれるおしゃべりに花が咲く。
 そしてその間、坂井悠二は黙って話を聞いているだけだった。出されているココアに手をつけようともしない。
 はたして、当事者であるにも拘らず、まったく話題に触れられることがなく、ただ会話を見続けることは苦痛ではないのだろうか。
 しかし、坂井悠二にとって、今の状況はそれどころではなかったのである。
 


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