衛宮士郎は決心した。決して屈することのなかった感情だったが、ついに屈したわけだ。
聖杯戦争の時にはある程度もたらされていた知識を失ってしまったこともある。
忘れてしまっていたわけではないが、いざ、反対となっているボタンをつけたときなどは違和感に手が震えてしまった。
しかし、契機は、すでに聖杯戦争の時から始まっていたのだろう。
あのときから、既に衛宮士郎は負けていたのだ。
真名を明かさず、アーチャーと呼ばれていた時、セイバーと同じように日常女物の服。セイバート色違いのおそろいを着ていた。
身体そのものからセイバーと同様なわけで、似合っていたのだろうが。
それを自分で言うのはあまり、感心できることではない。
まあ、とにかく。その時は目に見える範囲のうちでは、それを着ることについては諦めてもいたし、折り合いもつけていた。
だが、下着となればまったく違う。いくら、身体がセイバーと同じ、女性のものになってしまったとして、そこまで我慢できるものではない。
そも、サーヴァントを定義として、戦う者とするならば、服装にこだわる理由はないのだ。
それはまあ、こだわる必要がないのなら、女性物の下着を着てもいいのではないかといわれるかもしれないが黙殺する。
まさか、凛から借りるわけにもいかず、何とか工面してくれた金でもって女性用ではない下着を使い、使用していたのだ。
ブラジャー? とんでもない。そんなものつけることに抵抗がない男がこの世にいるだろうか。
いるかもしれないが、私には無理だった。ならどうしたのか? 簡単なこと。
つまり、巻いていたわけだ。さらしのように、胸の部分を。アレで。使い方としては、完全に駄目駄目だろうが。
だが、ついに、それも瓦解してしまったのである。
「アーチャー、それは何を穿いているのですか?」
「何をとは、セイバー、そのようなことを私に訊くのか?」
「ええ、これは大事なことですから」
笑みを浮かべた顔は、どこまでも優しいが、それと同時にどこまでも恐ろしい。
逃がすつもりは毛ほどもないようだ。
「答えられないようですね。では、どうして、などど言うことは聞かないでおきましょう。わからないでもありません。ですが、貴女が穿いているもの、私が理解していないとでも?」
セイバーにも等しく聖杯からの知識は与えられている。なんとも無駄なそれだが、それが此処までの苦境をもたらすとは。
「それで、私は有罪なのか?」
既に諦めきった口調で訊ねる。
「ええ、凛、少しアーチャーを借りて、いや、そうですね、リンもどうですか?」
それから、私はセイバーに引きずられて新都の、ある店へと連行されたのだが。
(あれは、地獄の一種だろう……)
思い出してげんなりする。
凛も一緒になって、あれやこれやと遊ばれたものだ。
それでも、何とか上は死守したのだが。
(イリヤは悔しがっていたな)
一種のイベントに乗り遅れた彼女はたいそうご立腹したものだ。もちろん、それを宥めるのは簡単なことではなかった。
今いる場所、ある店の看板を見上げる。
薄いピンクの看板に白文字で可愛らしく店名が書いてある。女性の下着専門店だ。
店の入口からは、ちらほらと中に並べてある色とりどりの下着が見えている。
それに、思わず恥ずかしくなり、顔を赤くしてしまったが。
実年齢●●歳の、しかも男では、やばい光景に他ならないだろうが、見た目十台半ばの姿では微笑ましい姿の何者でもない。
衛宮士郎は緊張のため、つばを飲み込む。
かつてはセイバーと凛に無理やり連れられたのだが、自分ひとりとなるとやはりというか、足を踏み出すのが躊躇われた。
(ええい、ままよ)
それでも、勇気を振り絞り店内へと本人は心なしか、他者が見れば完全に大股で店内に入っていった。
(うぅっ……)
だが、店内のあまりの異世界ぶりに頭がくらくらしそうになる。
前回のそれは、二人に遊ばれたために、あまり意識することはなかったが、今回は違った。視界のほとんどが、結局は二人だったのである。それだけ、彼女らのことが衛宮士郎にとって大事だったということでもある。
とにかく、壁に所狭しと並べられた下着。特別仕様なのかとにかく、やたらに豪奢な下着など。ここはまさに、女性だけの世界だ。
(むっ)
どこか見覚えのあるそれに、つい手を出しそうになって慌てて手を引っ込める。
確かこれは―――セイバーが
「ほう、ほうほう。これはなかなか、すごいですね」
脳裏に描いたセイバーは、下着を両手に持って伸ばしていた。遊んでいたとも言う。
結構伸びるものですね、なんて言っていたが、なるほど、その類のものも進化したのだろう。
何せ、セイバーの時代は遥か昔だ。
さすがに、凛に窘められて、恐縮していたが。
(い、いかん)
妙な想像にまた顔が羞恥に染まる。セイバーの無邪気さもそうだが、その手に持っていたものまで脳裏で再現してしまったのだ。そりゃあもう、鮮明に。何せ、似たようなものがいくらでも此処にはある。
つくる側の人間である衛宮士郎にしてみれば、容易い事だった。
(こ、これは、単独行動では私は死ぬ。お、応援を要請せねば)
視界に入る下着をなるべく視ないようにし、此処にいるはずの店員を探す。
鷹の目は十分にその力を発揮し、レジの所にいた、すらりと長身の女性を発見した。
(むっ)
ライダーに匹敵するような長身に、少しばかりむっとする。あれでは並んだ場合見上げねばならないだろう。
この身体にけちをつけるわけではないが、かつて持っていたもの、失ってしまったことを実感させられる。
あの、自分自身奇跡だと思った、急成長を。
(はっ、青いな、私も)
自分を心の中で罵倒しながら、目的を果たしに女性店員の下へと足を踏み出した。
「では、サイズからですね。かしこまりました。―――お客様は今は何もつけていらっしゃらないんですか?」
自分のサイズも知らずに、此処に来てしまっていたわけだが、そこは相手もプロフェッショナル。要領を得ない受け答えも、まるで心が読めるように、正確に代弁してくれた。
「あ、いや」
気恥ずかしさから、すこし声が上擦るがなんとか首を振る。一応アレを巻いているのだ。
「それでは、こちらへどうぞ。お測りいたします」
案内する女性にすごすごと付いていく。どうしても、顔を上げられず、自然と下ばかり向いているわけだが、店員は気にしてもいない。むしろ微笑ましい者を見るような視線は、さらに顔を紅くするに十分なものだった。
試着室は、店の奥にあった。店の外からは見えないようになっている。当たり前のことに感嘆を抱きながらも、一方で自分が追い詰められていることを認識した。誰が考えたって、外から見える試着室は問題だ。
(はは、ははは)
鼓動が激しくなり、靴を脱ごうとする手が震える。なんとかそれに成功すると、一段上がり試着室の中に入った。
(これは―――)
なんというか、広かった。いや、人生の中で最高、というわけではないが。
私と店員の二人が入っても、かなりの余裕がある。かごやウェットティッシュ、スプレーらしきものが見えた。いろいろなものがあり、随分と充実している。
「それでは、上着を脱いでもらえますか?」
少し放心していた頭を、女性店員の声が呼び戻す。
「は、はい」
慌てたように上着を脱ぐ。逸る心は手に伝わり、ボタン一つ外すだけで一苦労だった。
それでも、何とか成功し、足元にスカートとブラウスが落ちる。
「お客様、それは一体」
今まで崩れることがなかった、女性店員の声が若干変化した。どこか、怒っているような呆れているようなそれだ。
「ええっと、さらしというのだが」
実際には、さらしではなく、アレを巻いている。包む、という点では間違っていないはずだ、というのが考える時、つけるときの言い訳なのだが。
(やはりお気に召さない、駄目なのだろうか……?)
「お客様!」
「は、はい!」
思わず背筋を伸ばす。
「今まで、こんなものをつけていたのですね!」
「あ、ああ」
目の前の女性の豹変振りに、腰が砕けそうになる。
顔は笑っているのだが、その気は烈火のごとく燃え上がっている。
どうして、女性というものは笑いながら怒ることができるのだろうか。
「お客様!」
「は、はい!」
「どうやら、いろいろと間違った教育を受けてこられたようですが。よろしい。私が矯正して差し上げます」
「きょ、矯正?」
「それではお客様。手を上げてもらえますか?」
花の香水の香りだろうか。女性から発せられるその匂いに、私は酩酊するように。
言われるままに両手を上げた。
◇ ◇ ◇ ◇
「はあ」
手すりに腰を下ろして溜め息を吐く。
ダメージは深刻だ。手ごわいとは思っていたが、その認識ですら甘かったらしい。
足元には、今日買った戦利品がそのまま置いてある。
このまま此処に残して帰ってしまいたいと思ったが、それでは負けだと思いとどまる。
あれからの事は、出来れば封印しておきたかった。
それも地中深くに。埋葬する気持ちで。
そうでもしなければ、ガラスのような精神が、持ちこたえられるとは思えなかった。
そうして、何をするでもなく足をぶらぶらさせながら、煙草を取り出した。
箱から一本引き抜き口にくわえる。
ライターではなく、マッチを片手で火をつける。
そして、煙を肺まで吸い込んで。
「――――――――――けほ」
以前と同じように咳き込んだ。
やっぱり、この身体は煙草を受けつけないらしい……。
それでも、やめず、目に涙を浮かべながら吸い続ける。きっと、こういう日もあるのだろう。これからは……。
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