ツキノカゲ (ツッコミハユルシテ)
風が吹いている。
その風に吹き消されないように身を屈めながら、士郎は咥えていた煙草に火をつけた。
どこか薄汚れたビルの壁に背を預けながら煙を吐き出す。
量が増えたと思う。
この街に来てから、随分と吸う様になった。
それまでにいた場所で、煙草などが手に入るような場所ではなかった。また、その前に勤めていた場所で、吸うわけにはいかなかった、という理由もあったが。
何時から吸い始めたのか。そういった取り留めのないことを思った。
街灯はところどころ壊れ、役目を果たしていないものの方が多い。
視界の端には、吐瀉物が。
どこからか猫の鳴き声が聞こえ、また、どこからか犬の遠吠えが聞こえた。
空を見上げても、月はおろか星さえ見えなかった。
この街に来てから、随分と経った。
故郷を出てから、一つ所に留まるのは、ロンドン以来久しぶりのことだ。
違うのは、親しい友人がいないことと。
なにかに明け暮れることもないこと。
あの派手な服装も、ここに来てからは袖を通していなかった。
自分の服装を眺めながら思う。
センスがないのは相変わらずだったが、今の格好はおかしくはない。
ぼんやりとしている。
何かに追われる事もない。
ただ、その日その日を過ごすだけ。
理由もなく街を歩き、意味もなく煙草を吸う。
決して、良い街ではなかったが、別段、気に留めることもなかった。
――たいしたことではない。
どこにだって、影はある。
そして、そんな街の悪意を表すように、気がつけば目の前で事は起こっていた。
自分以外の人の気配がなかった路地裏に、何人かの気配が混じる。
それも、日常とは乖離した、不穏な空気が。
それでも、動くのが億劫で、壁に背を預けたまま煙を吐き出す。
自然と、目は閉じていた。
視界を遮断したからか。音がはっきりと聞こえる。人数は六人。
おそらくは、一人をそのほかが追っているのだろう。
その結果、逃げていた一人がこの場所に追い詰められた。
街灯の灯は弱弱しい。
逃げてきた男も。それを追いかけてきた五人の男も。闇にまぎれるように煙草を吸う士郎に、気がついた様子はまったくなかった。
どうでもいい。変わらず、士郎は目を閉じ。
関心がないというように、煙草を吸い続ける。
聞こえるのは、肉を叩く不快な音と、それをする男達のどこか酔いしれた叫び声だけだった。
五人がかりで、一人を痛めつける音。
それを、僅かに開いた片目で眺めた。
ちょっと前の自分なら、助けただろうか。
殴られ、血と、それ以外を吐き出す男を見る。
いまだ自分は手をコートのポケットに入れたまま。短くなった煙草を吸うだけだ。
その間も、男は痛めつけられる。
いくらか骨が折れただろう。歯も欠けただろうか。
その光景を眺め続ける。片目で。
そうして、どれくらいの時間が立ったのだろうか。まだ、咥えていた煙草に少しだけ吸う余地があるのだから、たいした時間ではなかったのだろう。
殴られていた男は、ほとんど動かなくなっていた。それでも、胸は上下しているので、生きてはいるだろう。まだ。
それで、気が済んだのか、暴行していた男達は倒れている男につばを吐きかけると、初めてこちらに誰かがいることに気がついた。
「お、おまえ、何時から」
目を見開いた――こちらに一番近かった男が、掠れたような声を出した。
誰しも、見えないということは恐怖に違いない。得体の知れぬものに警戒するのは当然といえた。
それに答えず、黙ったまま煙を吐き出す。
それが気に入らなかったのか、声を発した男。茶色い髪をした男が叫びながら近づいてきた。
「てめえ! 何か言ったらどうなんだ!」
近づいてきた男は、それで初めて相手の身長に気がついたのか。一瞬躊躇したが、それでも詰めより肩を怒らせた。
その男に続いて、他の四人も近づいてくる。
「初めからだ」
どこか投げやりに答える。煙草も咥えたままだった。
「あ?」
言葉が聞き取れなかったのか、茶髪の男が声を上げる。
それで十分と、煙を肺まで吸い込む。
「ー―っ! なめてんのか!」
堪えきれなくなったのか、茶髪の男は顔めがけて殴りかかってきた。
それを、僅かに体をずらして躱すと、泳いでがら空きになった腹に膝をめり込ませた。
「な、なにしやがる!?」
仲間の一人がやられて、敵と判断したのだろう。他の人間が襲い掛かってきた。
それに溜め息を吐くと、壁から離れる。
喧嘩慣れしてはいるが、それだけの人間だった。
正面の男が粗雑に腕を振り上げる間、無防備な腹に爪先をめり込ませる。
それで一瞬動きが止まった二人のうち、一人の腕を掴み、空いた手であごを打ち抜く。
ようやく動き出した一人が、背後から飛び掛ってきた。
それに、振り返りもせず靴裏を叩き込む。
殴りかかってきた手と交差するように放たれた蹴りは、深々と相手の腹に突き刺さっていた。
皆、一撃で気絶していたが、手加減はしたから生きてはいるはずだ。
そうして、残った最後の一人を見つめた。
一人だけ、間合いに入ってこなかった男。
長髪の男を面倒臭げに見つめる。
「へ、へへ。やるじゃねえか、あんた」
口元に皮肉気な笑いを浮かべながら、男はナイフを取り出していた。
笑みは浮かべたままだったが、表情に余裕はなく、額から汗が流れている。
「こいよ」
長髪の男が挑発するが、無視する。
代わりに咥えていた煙草を指で挟み、煙を吐き出した。
瞬間、長髪の男が右手のナイフを投げつけてきた。
それを体を捻って躱す。
どこぞのチンピラにしては、たいした速さだった。
「し、死ねぇっ!」
士郎の態度が気に入らなかったのか、長髪は懐から無数のナイフを取り出し、右、左と投げつけてくる。首を振って最初の二本を避け、肺、喉、眉間へと向かってくる残りを、無造作に掴み取った。
「な……」
それで打ち止めなのか、唖然としたように長髪はこちらを見つめている。
それに気を止めず手に取ったナイフを、無言で見つめた。
そして、初めて、感情を交えた瞳で長髪を見た。
「ひっ――――」
長髪は何かに怯えるように、歯の間から音を漏らした。
腰を抜かしたのか、尻餅をつきながら、後ずさろうとしている。
その頬を掠めるように、手の中のナイフを一本投げた。
そうして、動きを止めたへと歩む。
「今まで、何人殺した」
抑揚のない声で問いかける。
「五、五人……」
ガチガチと歯を鳴らしながら、長髪が答える。
その目には涙すら浮かんでいた。
「そうか」
そう呟いた瞬間、無造作に男の腹を蹴り上げた。
ごろごろと横転し、置いてあったゴミ箱に激突する。
「俺よりマシだ」
短くなった煙草を壁に擦り付けて揉み消す。
自分が気絶させた男達と、その男達に暴行された男を眺める。
懐から携帯を出し、誰ともなしに呟いた。
「くそっ」
最低の気分だった。
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