ツキカゲル  

 もう明け方になろうとしていた。
 とはいえ、世界はまだ黒い色が勝っている。
 真っ黒とは言えないが、少し薄めた墨を満遍なく濡らしたような色だった。
 理由もなく、ただ歩き。ふとしたときに、立ち止まって煙草に火をつける。
 それまでに、何本の煙草を吸ったのかはわからない。
 もっぱら、吸っている時は歩いてない時なので、たいした本数ではないだろう。
 はっきりと、歩いている時間の方が多いのだから。

 少しだけ軽くなったポケットを感じながら、いまやほとんど寝るだけの場と化している住処へと足を進める。繁華街から少し離れた所にあるそれは、お世辞にも上等な建物とは言えない。
 繁華街には明け方まで営業しているバーやクラブがあるためか。他の住人は水商売の女が多かった。そういう女性達と幾度がすれ違ったこともある。場所柄ゆえ、というものだろう。
 もっとも、誰が近くに住んでいようと関係なかった。
 決して、誰かと交友を持つつもりはなかったのだから。

 鍵を開けようとして、眉を顰める。
 鍵はかかっていなかった。
 出かける時、閉めたかどうかも覚えていなかったが、たぶん閉めたはずだ。
 それほど、かつての習慣というものは残っている。
 鍵をコートのポケットに戻し、ドアノブに手をかける。
 躊躇は一瞬。すぐさまノブを捻った。

 物取りだろうか。少なくとも魔力の残滓は残っていなかった。
 鍵のかけ忘れ出ないならばつまり、泥棒の仕業とするのが妥当だ。それも、普通の泥棒。
 泥棒もさぞやがっかりしただろう。
 何せ、盗るようなものが何もないのだから。
 何もない。かつての自分の部屋以上に、ここには何もおいてない。
 いや、、何も置いていないというのは少し違う。
 あるのはせいぜい寝るために使ってる寝袋と、いくつかの衣類だけだ。
 その衣類も、金になるような代物ではないし、寝袋も同様だ。
 部屋そのものは、別段悪いというものではないだけに、物の少なさは慣れぬ人間が見れば眉を顰めるかもしれない。あの時の彼女のように。

 食に関してのことを思い出す。
 洗い台はあっても、食器の類はひとつもない。
 すべて、偽者で事足りるからだ。
 刃物類は言うに問わず、食器もその用途のためだけならば、たいしたことはなかった。
 出来損ないだからこそ、跡には残らない。何も……。

 薄暗い部屋の中で頭を振る。
 過去を浮かべるというのは、久しぶりだった。
 これまで、考えないように。思い浮かべないようにして……。
 いや、それだけじゃない。未来も何もかも。全て考えないようにしていたのだ。
 もう一度、今度は強く頭を振る。

 明かりをつけ、上着を脱ぎ捨てた。
 いくらかそこかしこに光があるとはいえ、夜の道が暗いことにはかわらない。
 だから、明かりをつけて初めて自分の上着に目立った汚れがあることに気がついた。
 どうやら、先のごたごたで、血が付いてしまったらしい。
 血痕というものは、中々に落ちにくい。
 夜はともかく、昼間は着ない方が無難だろうか。

 何時買ったのだったか。
 上着――コートを着ることになった理由を思い出す。
 この街に来る前のことだ。
 あの時から、それまでの装束をやめ、今のコートに替えた。

 考えながら、手早く服を脱いでいく。
 何故か、考えまいとしても、考えてしまう。
 ――過去を。
 熱い湯をシャワーから浴びる。
 部屋と同様、随分とこしらえは古びてきているが、十分に使えた。
 少なくとも、お湯が出ないなどということは、今までに一度もなかった。
 たいして汗をかいているわけでもない。
 むしろ、染み付いてしまった煙草の匂いの方が強いだろう。

 たぶん盗まれたものはないだろう。
 だが、――もし、あれがここにあったのならば、盗まれたかもしれない。
 しかし、ここにはないものだ。そんなことを考えても意味がない。
 あの時、あれを手放すことを決め、預けたのだから。
 背を向けて逃げる、と。

「俺は、やめたんだ」

 あの時、決めたこと。
 自分が愚かだったと、本当に実感してしまった時に。

 シャワーで視界が歪む中、士郎はいつまでも俯いていた。



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