44


 
 土蔵に座る。それ自体は私の記憶が確かであれば、かつて幾度となく繰り返してきたことである。何しろ日課であったし、目的を遂げるための大事な手段――そのためのものだったのだから。
 漆黒と言うには少々足りないかもしれないが、それでも黒いことは黒い。故に、汚れも目立つ。僅かな月光が頼りだというのに、私の目には服に付いてしまった汚れが見えていた。おそらくは座ったときについてしまったのだろう。そう結論付ける。
 今着ている服の良し悪しはともかくとして、ドレスと呼べるものを汚すことに微かな罪悪感が湧いた。何故、鎧を着ていないときはドレスなのか。そういった疑問がなかったわけではない。
 結局の所セイバーも、男として振舞っていたセイバーでさえ鎧の下に青きドレスを纏っていた。もちろん、サーヴァントとして召還される時には性別を偽る必要がなかった、と言う理由があるのかもしれないが。もし、普段からドレスを彼女が着ていたのだとしたら、彼女が性別を偽っていたとしても、気づくものは気づいていたのではないか。そう思える。
 基本的にこの身体がセイバーを基にしているのであれば、そういった部分でも同様であることに問題はないのだろう。聖剣や鎧、そして身体と同じくして、僅かな差異はあるとはいえ。そして、きっと気づくものは気づく。例えば奴のように。
 小さく嘆息する。何故、こうも自信がないのであろうか。
 何とかして、かつてそうしたように座ってみた。後は、試してみさえすれば良い。それでわかる。

「いや、そう簡単にはいかないか」

 嘆息する代わりに小さく声を出してみる。
 投影をしてみる。それ自体に現状を解決する力はない。例えば、投影に成功したとしても自身の不安は消えないし、例え失敗したとしても納得はしないだろう。そう、確信していた。
 結局、凛が言う様に自身の世界を形成するしかないのか、だが――それさえも解決にならない。
 何しろ、この身体はセイバーと同じ宝具を有している。身体を持っている。そんなことを可能とした聖杯が、固有結界の複製を可能としない理由がない。たとえ、固有結界をかつてと同じように展開したとしても、それは決定的な力を持たない。自分が衛宮士郎である確固とした理由にならない。
 どんなことをしても納得はしないなんて考えているのだから、これは正しく子どもの我侭と変わりはしない。変わりはしないのだが……。答えは欲しいのだ。

 そこに、一つの疑問がある。
 何故、私は自分が衛宮士郎であることに拘っているのだろうか。
 先程の凛の言葉が甦る。
 サーヴァントは所詮、英霊のコピーでしかない。かつてのセイバーは例外だったとしても、それ以外の六騎は基本的には英霊の写し身にしか過ぎないはずである。
 ならば、この身体とで同じはず。もし、この戦で散ることになろうと、それはこの私が消えるだけのこと。
 本当の私に、ただの記録として、記憶にもならぬ結果として、事実として伝わるだけのもののはずだ。
 それは、今の私の苦悩が何の価値を持たない、そういうことになるのではないか。
 何しろ、みんな本物ではないのだから。 

「結局、私自身が弱い。その通りなのだろうな。心は硝子、か」

 凛の言葉通り、いや、それ以上に脆弱な自分の弱さに頭を抱えたくなる。だが、実際にそれをすることはできなかった。

「誰が、弱いのですか?」

「っつ――!?」

 慌てて立ち上がる。土蔵の主である衛宮士郎と違い、私の格好はこの場所に適しているとはいえない。つまりは、あれが翻ってしまったわけで。
 とにかく、不意打ちの如くかけられた声に私は過剰な反応をしてしまったわけだ。

「セ、セイバー?」

 私の反応に驚いていたのだろう。お盆を抱えたセイバーは、目を丸くしてこちらを見ている。しかし、徐々に事態を把握したのか、彼女は少し眉を顰めると、頬を少し膨らませた。

「アーチャー。今の反応はなんですか。これではまるで幽霊と見たときの反応と大差ない」

 それを言ったら、我々サーヴァントは間違いなく亡霊の類なのだが。つい、そう言おうとしてやめた。それではますます、セイバーの機嫌を損ねるだけだろう。

「いや、その。すまない。いろいろと考えていたものだから」

「そうですか。それなら仕方ありませんね」

 もともとたいして怒っていなかったのか。セイバーは微笑を浮かべるとこちらに近づいてくる。どうやら、お盆には食事が載せられているらしい。

「わざわざ、それを?」

 わかりきったことかもしれないが、一応訊いてみる。セイバーが衛宮士郎の食事を好むと言っても、さすがにわざわざ自分のためにここまで持っては来ないだろう。ということは、私の分、ということになるはずだが……。
 私が随分と失礼なことを考えている事を知らぬセイバーは、首を縦に振ることで問いに答えた。 
 そして、私に近づくとお盆を差し出す。

「どうぞ。アーチャー」

「あ、ああ。ありがとう」

 なんというか……これは少し、気恥ずかしい。
 私はお盆を受け取ると、照れを隠す必要もあって土蔵を見回した。ここは食事を摂るには少し……。
 私は、熱を持った頬が覚めていくのを待ってからセイバーに向き直る。

「とりあえず、セイバー。ここを出ないか?」

「そうですね。わかりました」

 私はセイバーが了承すると早速、と言った感じで足を踏み出そうとしたのだが、そこでセイバーが何かに気をとられていることに気がついた。出足を崩された形となったが、動揺は薄れる。私は気づかれないよう深く息を吸い込み、吐き出した。
 セイバーの視線は土蔵のある一点へと注がれている。
 その方向へ、セイバーが棚へと近づいていく。それに続くように私は両手に盆を抱えたままついて行った。
 セイバーが向かった先。その棚には、一対の剣が二組、大事そうに置かれていた。

「干将と、莫耶、か?」

 セイバーと身長が変わらぬ以上、背後にいても見えるわけがない。私は自然とセイバーの側面に立つことになっていた。
 ここに来た時も、凛と契約し話をしていた時も気がつかなかったが、棚に載せられているのは紛れもなく私が最も得意としていた双剣である。問題は、私がここで投影した覚えがないということ。つまり、これは――衛宮士郎の手によるものだということになる。
 何時から存在するのかはわからない。少なくとも、私は土蔵には殆ど近づかなかったし、中に入ったのは数えるくらいだ。あの時、セイバーの幻影を頭に浮かべた時には、なかったと思うが。

「これが、シロウが投影したという……」

 私を現実に引き戻したのはセイバーの言葉だ。関心はあっても触れるつもりはないのか、ただじっと双剣を見つめているだけである。それよりも、私が気になるのは。

「知っているのか? セイバー」

 この剣がここに存在している理由を、セイバーが知っているかどうかということであった。
 剣を見つめていたセイバーの瞳がゆっくりと私に向けられる。彼女の瞳は普段と変わらぬようにも見えるし、何処か違うようにも見えた。

「詳しいことは知らないのです。ただ、シロウはこれが初めて投影に成功したものだと。具体的にはわかりませんが、私が怒るような状況で使ったらしいのですが」

 話しているうちに少し不満が湧いてきたのか、セイバーの声は少し拗ねたような憮然としたようなものになっていた。セイバーに隠す、ということはおそらく……

「どうせ、サーヴァント。おそらくはランサーとでも打ち合ったのだろう。それならランサーと共闘していた理由もわかる」
 危機的状況にならなければ。それも命に関わるほどまで追い込まれてやっと力を発揮するタイプだろう。衛宮士郎とは。

「そんなところでしょうね。ランサーの性格なら、敵であっても認めさえすれば一時的な共闘くらいはするでしょうし」

 私とセイバー二人の、おそらくは別の存在であるランサーを思い浮かべても、出てくる答えはひとつだけだ。
 二回も私を、そのくせ足止めなど……。
 かつての自分がどう思ったのか。それをはっきりとは思い出せぬまま、ただ今の自分が思う言葉を口にする。

「あれはムラがあるというのだ」

 しかし、憮然とした声をしたつもりだったのだが、どこか違う口調になってしまった。これは、なんなのだろうか。

「これは、なんとも中途半端な」

「む」

 私の言葉を的確に言い表したセイバーに思わず唸る。
 ただ、セイバーの声は楽しそうではあるものの私の言葉そのものには笑いを抱いてはいないらしい。
 これなら咎める必要はないと、私は出しかけた矛を収める。
 だが、セイバーはそれさえも気づいてしまった、とでもいうように苦笑を浮かべた。

「しかし、貴女の気持ちもわかります。ランサーは英雄と呼ぶに相応しい者だ。それに、彼には借りもありますし」

「セイバー、借り、とは?」

 セイバーの言葉に違和感を覚えた私は、半ば反射的にセイバーに訊いていた。私が知る限りではランサーとの関わりがそんなにあったとは思えないが。
 
「え? それは、柳洞寺で――」

「いや、いい。大体わかった」

 柳洞寺の一言で自分の疑問が薮蛇だったことに気がついた。つまり、借りとは即ち――私に関することも含まれているわけだ。あの地での無様な自分と、微かな、あることに対する自惚れ隠すためにセイバーから視線を逸らし、干将・莫耶へ視線を向ける。

「しかし、これは……随分と精度に差があるな」

 両手が塞がっているため、触れることはできなかったがそれでも、二組の双剣に差があることは簡単に気づくことができた。
 それを話を変えるチャンスとして咄嗟に口にした。

「そう、なのですか?」

 気がついてなかったらしく、私が思った以上にセイバーが不思議そうに聞いてくる。確かに、干将・莫耶は宝具として高い部類にあるわけではない。むしろ下位に位置するわけで。それらに差があるとしても傍目からは看破することはできないかもしれない。
 それこそ、彼女の剣ならいざ知らず。

「ああ。この二つの剣。外見だけを見るならば一見変わりないようにも見えるが。中身において相当に差がある。それこそ、名剣と粗悪品と言っても過言ではないくらいにな」

 それくらい、この二つの投影品には差があった。中身のみを比べるなら衛宮士郎の料理と藤村大河の料理を比べるくらいに。精度の高いほうは信じられぬことだが、私のそれと変わらない完成度である。それに比べて低い方は……例えばこの高い方と数度打ち合えば崩れ去る。それくらいの強度、存在しか持ち合わせていない。
 これが同一人物の投影によるものであれば、随分と差がありすぎる。
 
「どちらにせよ戦闘中に投影したのだろうな。それでこれができるのであれば、あるいは」

 頭にある言葉が張り付く。そうだ、何を考えている。衛宮士郎ではサーヴァントと戦えない。ならば、奴が戦うべきは私と同じように……。
 頭を振る。

「悪い、セイバー。先に行くぞ」

 双剣から視線を外した私は、逃げるように土蔵の出口へと向かう。

「あっ、待ってください。アーチャー」

 その後を、セイバーは少し慌てるようにして追ってきた。
 あの時は逆だった。状況はまったく違うし、お互いの立場も違う。
 ただ、月が彼女を照らしていたことは変わらない。 
 銀の光を纏う彼女を、忘れはしないと誓ったのだ。
 自分の記憶を信じる、ということであればの話だが。
 よそう。セイバーと居る間に、そんなことを考えても益はない。価値はない。
 夜の空に浮かぶのは数多の星々と、一個の月。いくら私の目が良くとも、距離までは変わらない。ただ、なんとなくそれらに近づきたくなった。

「セイバー。不謹慎かもしれないが、屋根に上らないか?」

「フフ。貴女にしては珍しく、随分と弱気な。いつも屋根の上にいるではありませんか」

 言葉に混じってしまった私の感情を耳聡く理解したのか、セイバーに微笑が浮かぶ。それに敵わぬなと私は溜め息をついた。ついでに、彼女の言う「いつも」がどれを指すのか、それを考えるとますます敗北感が湧いてくる。

「さすがに、屋根の上で食事などしたことがないのでな」

 だからといって、このようなことを言ってしまうとは。そう思ったとてすでに後の祭りである。
 私はセイバーが何かを言う前に、屋根の上へと飛び上がった。

「まったく、どうかしてる」

 そして、口の中だけで愚痴をこぼす。私がサーヴァントなればセイバーも同じくサーヴァント。いかな騎士とはいえ油断はできない。

「そうですね。今日の貴女は随分と」

 しかし、私の試みは無駄だったようで。結局は聞かれていたようだった。
 すとんと屋根の上に腰を落とした私の隣に、セイバーがゆっくりと座る。私は彼女の方を見ることができず、ひたすら空を見上げた。
 それから、どれくらいの間空を見上げていたのだろうか。月の位置は殆ど変わっていなかったから、たいした時間ではなかったのだろう。セイバーが遠慮がちに私に声をかけてきた。 

「食べないのですか」

 先の私のような、何とも弱弱しい声である。その理由が何なのかは残念なことにわからなかったが、理由はわからなくとも彼女がそのような声で言ったことは間違いない。
 これは、少し失礼な考えかもしれないのだが……。

「君も、食べるかね?」

 そう言って、私はお盆を左手で差し出した。すでに、右手にはお握りを一つ握っている。

「良い、のですか?」

 セイバーの表情から、自分の心配が杞憂、いや、間違いだったことに気がついたが、今更出したお盆を引くのもおかしい。

「こうやって勧めているんだ。悪いわけがないだろう?」

「そう、ですか。では、お言葉に甘えることにします」

 そう言ったセイバーは少しためらいながらもお盆の上のお握りに手を伸ばした。
 お握りはおそらく、衛宮士郎が握ったのだろう。ただ、奴にしては珍しいことに形のほうがあまりよろしくない。
 私はセイバーがお握りを掴んだことを確認すると、一足先にいただくことにした。

「では、いただきます」

 そう言って一口お握りにかぶりつく。その時になって初めて、自分が随分とお腹を空かせていたことに気がついた。
 この身であれば食べなくても問題はないと言うのに。

「これは、美味しいな」

 悔しい、という言葉は意外なことに思いつかなかった。それくらい、お握りが美味しかったのである。
 ゆっくりと咀嚼し、お握りを楽しむ。いつの間にか閉じていた目を片目だけ開いて、横にいるセイバーの顔を盗み見た。
 そこにはいつもの、食事を楽しんでいるセイバーの姿があった。
 横にいるセイバーと、かつて夜を駆け抜けたセイバー。二人の違いを見つけられるかと問われれば自信はない。同一人物だと言われれば納得してしまうだろう。答えを見つけた彼女と、聖杯を必要ないと言った彼女。
 何をもって違うと言うのか。根拠は、ここに居る……その一点でしかない。
 やがて甦ると謳われ、眠りについているはずのアルトリアが喚ばれるはずがない。だから、ここにいるのは彼女ではない。そんな風に考えていたのではないか。
 そんなことを考えるのは――間違っているのではないか。

「どう、か、しましたか?」

 いつの間にか盗み見ていたことに気づかれたらしく、セイバーが微かに顔を赤くしながら私を見つめていた。

「あ、いや。すまない。ただ、実に美味しそうに食べるな、と」

 あんまりセイバーの仕草が可愛らしかったせいなのか、私はつい、思ったことを口にしてしまう。
 しかし、それはセイバーの頬を膨らませることになってしまった。

「それは、貴女も変わりないではないですか。私の感想も貴女と変わりないですよ」

「そ、そうか」

「そうです。ほら、ごらんなさい。お握りだってこんなに減っているのですから」

「む……」

 言われて気がつく。お盆の上のお握りが殆ど残っていない。随分と、それこそ山の如くあったような気がしたが。

「セイバー。いくらなんでも食べすぎでは――」

「ほとんど、貴女が食べたのですが」

「は――?」

 その言葉に思わず両頬を触りそうにり、すんででこらえた。落としそうになったお盆はなんとか手に残る。

「私はそんなに、食べたか?」

「それはもう。そもそも、私を見ていたのなら私が食べた数くらい覚えているのではないですか?」

「むむ……」

 言われればそうである。何しろ一口食べてからずっと見ていたのだから。そうだ、セイバーは確かに。

「三分の一も、食べて、ない?」

「当たり前です。そもそもアーチャーのために持ってきたものを私がほとんど食べてしまってどうするのですか」

「ということは、私が食べた?」

「先ほどからそう言っています」

「信じられない」

「アーチャー。貴女、まさか私のことをひどい大飯喰らいのように思っていませんか?」

「いや、そこまでは思ってはいないが。あの時は断食と冗談を言ったくらいでひどい目に……」

「む、何か言いましたか?」

 心の中で言ったつもりが口に出してしまっていたらしい。慌てて両手を口で塞いだが、そのために今度こそお盆が手から離れて――

「くっ!?」

 何もしなければただ、屋根の下へと落ちていくはずのお盆だったが、慌てて身を乗り出したセイバーがキャッチに成功した。ただ、乗り出した、ということが問題なわけで。

「ふう、危なかった。アーチャー、貴女は兵糧の大事さをわかっているのですか?」

「それは、重々承知しているが。その、なんだ。この体勢で説教を受けるのは、あれだ。少し恥ずかしいのでは、ないかな?」

 声が擦れて若干上擦ってしまう。私は、動揺していた。
 乗り出したセイバーは私の手から離れたお盆をキャッチしたわけで。それを掴もうとした勢いは中々止まらないわけで。その、つまりセイバーは今、私の膝の上に身体を乗せた状態なわけである。

「す、すみません。アーチャー! すぐに離れますから!」

 そう言ったセイバーだったが、状態が状態だ。両手が塞がっているため、手の力を使えないし、そもそも両手の位置が悪い。その結果、彼女は身を起こそうとして結局失敗することになってしまった。魔力を使えばこんな結果にはならなかっただろう。

「――すみません」

「いや、どちらかというと、これは私が悪いと思うのだが」

 セイバーの頑張りをただ眺めていただけである。本当なら手助けしなければならなかった。それをしなかったことで、セイバーがさっきよりさらに私に乗りかかってしまったのだから。

「とりあえず、お盆を私が持とう。いくらサーヴァントでもその格好はつらいのではないかね?」

「わかりました。お願いします」

 セイバーの後頭部より上にあったお盆を受け取る。これでセイバーの両腕は自由になった。そして私は、セイバーが身を起こすより早くお盆を高く掲げた。そうしないと、セイバーの頭にぶつかってしまう。
 とにかく、頭とお盆は衝突することなく、セイバーは無事に身を起こすことができた。
 ただ、なんというか……話しづらい。そんな雰囲気になってしまった。
 私は馬鹿みたいに掲げていた手を下げ、セイバーは私へと向いていた身体を九十度回転させる。なんとなく、お互いの顔が微妙に相手とは逆の方を向いている気がした。私がそうなだけで、セイバーはまっすく前を向いていたのかもしれないが。
 だが、意識が散漫になっていたことは確かだった。

「えーっと。大丈夫だったか? 二人とも」

「「――!!!!!?」」

 意図せず同じような声ならぬ叫びを上げた私とセイバーは、声の下方向を凝視した。
 月明かりのした私達を見上げている衛宮士郎は、なんともばつの悪そうな顔をしている。その顔には「全て見ていた」そう書かれていた。
 
「え、ええ、だ、大丈夫です、シロウ。私達は無事です! それはもう!」

 言い訳を口にするのは私よりセイバーのほうが早かった。しかし、動揺していることはまったく隠せていない。

「ん。まあ、セイバーがそう言うなら大丈夫なんだろうけど。アーチャー?」

 私は随分と厳しい視線を向けていたのか。衛宮士郎が若干後ずさったのがわかった。少し表情も引き攣っている。

「貴様――、どこから見ていた」

「見ていたって――」

 衛宮士郎は狼狽するが、そんな時間を与えるつもりはない。

「早く!」

「うわっ!」

「アーチャー、少し落ち着いては」

「セイバーこれは大事なことなのだ。頼む」

 そう、大事なことなのだ。奴が、どこから見ていたかによっていろいろと変わってくる。
 私の意図はともかく、その意思は伝わったのか。セイバーの瞳にも力が戻ってくる。

「ふう、貴女がそこまで言うのであれば。わかりました」

「ありがとう」

 私はセイバーの瞳を見つめながら礼を言う。先程のような気恥ずかしさはもうない。
 そして、なにより自分の言葉を優先してくれたことに、どこか後ろ暗い嬉しさを感じていた。
 それに浸ってしまったのを、鈍感なはずの衛宮士郎に気づかれてしまったのか。

「あー、アーチャー。もう話してもいいのかな」

「かまわん。さっさと話せ」

 ますます私の声は低く、ぶっきらぼうになってしまう。

「やっぱり嫌われてるのか? 俺……。俺が見たのは、その、セイバーがアーチャーの太腿? の上に乗っかってる所からだよ。だからちょっと珍しいな、と。なんかセイバーがアーチャーに甘えてるみたいだったし、俺にも気がついてないくらいだったからさ。そのセイバーが妙な格好でお盆持ってるのがよくわからなかったけど」

「なっ!? シロウ、それは誤解だ!」

 思わず小さく叫んだセイバーの横で私は目を細める。衛宮士郎が最初の方に何を言ったのかは聞き取れなかったが、重要なことは聞いた。先の表情を浮かべるような誤解はセイバーが解いてくれるだろう。
 説明することをセイバーに任せて、衛宮士郎の言葉を反芻する。セイバーが私に甘える、か。よくよく考えたら、この誤解は別に解かなくてもたいした不都合は私にはないのでは……。少々気恥ずかしいが。そんなことを考えていたのがまずかったのか。いつのまにか二人の会話を頭から締め出してしまっていた。

「アーチャー。貴女からもシロウに言ってください。決して私は甘えてなどいないと」

 とはいえ、さすがに私に向けて言葉をかけられれば反応くらいはできる。私は言葉を繰り返すことをやめ、視界を現実に戻した。肩をつかまれ揺さぶられるというオプションつきではあったが。

「わ、わかった。セイバー。言うから、言うから揺らすのはやめてくれ」

 セイバーの両手を肩からやんわりと離す。随分と興奮しているようだが、表情自体は取り乱しているように見えない。衛宮士郎の方は困ったような表情を浮かべているが、どこか譲らないぞとでも言うような意思を感じたような気がした。

「それで、何を言い争っているのだね、二人とも。一応夜なのだがな」

「聞いてなかったのですか?」

 離したばっかりのはずの両手がまた私の肩に乗せられた。自分に不都合な部分は聞き取らなかったのか、セイバーは微かに目を細めながら、声を大にして私がセイバーの説明を聞いていなかったことを咎めてきた。聞いてなかったこと、これについては何の弁解もできない。

「ん、まあ。衛宮士郎から聞きたい事は聞き出せたし。私自身は大して問題があるわけでは」

「大ありです! シロウは私が貴女に甘えているなどと言ったのですよ! 私はこんな誤解を許すわけにはいかない」

 そんなに甘える、というのがお気に召さないのか。セイバーの興奮は冷めそうにもない。
 そして、私が何かを言う前に、衛宮士郎がセイバーに向かって口を開く。

「だけどさ、セイバーがどうあれ俺にはそう見えたんだから仕方ないじゃないか」

 淡々と自分の意志を告げるその姿は、考えを変える気持ちはないと主張しているみたいで。私と同様にセイバーも思ったのか、視線を衛宮士郎に一瞬で戻すと、猛獣の如き激しさで口を開いた。

「だから! それはシロウの思い違いだと何度言えばわかるのです!」

 なるほど。こうやってセイバーの火に衛宮士郎が油を注いでいるわけか。
 しかし、これは見ようによっては随分と仲が良い、ともとれる。それはそれで、なんとなく気に食わない気がするのである。セイバーがここまで感情を露にしているのも。

 だから、私は二人が言い争いをやめる位には、大きな声を。低い声を。出したつもりだった。

「二人ともそれくらいにしたらどうだ。曲げられないものがあるのはわかるが、それにしてもこれは些か大人気ない、というか馬鹿馬鹿しい。衛宮士郎。お前は夜中に言い争いをするために出たのではなかろう」

 私の声で言い争いを中断した二人は、毒気を抜かれたような顔で私を見つめる。
 特に私に名指しされた衛宮士郎は、少し、と言うには些か以上ばつが悪そうだ。いい気味である。 

「いや、まあ、そうだけど」

 何故、セイバーがこうも妙なことに力を入れているのか理解できない。理解できないが、なんとなくセイバーが甘える、という言葉に懐かしい気持ちを思い起こさせられた。そう、かつて似たようなことを。
 それは自分の中に存在する嫌な感情に気づかされることでもあったが。

「――別に、お前の考えを曲げろとは言ってない。ただ、やるべきことをやらずして、通すものでもあるまい。お前は、まずやるべきことがあるだろう?」

 そして私は口の中で呪を唱える。

「干将・莫耶。よもやお前が私の剣を投影するとはな。とりあえず、見事とだけ言っておこう。だが、それは片方だけだ。もう片方は目も当てられん。どんな危機に際しても問題ない程度になる様、鍛錬するべきだ」

 片手にお盆、片手に干将と、よくよく考えれば馬鹿馬鹿しい格好――しかもよく考えれば座ったままであることはとにかく考えないようにして、私は土蔵を干将で指し示した。

「わかった。ちょっと、不謹慎だったかもしれない。アーチャーが言う様に俺は未熟だから、きちんと鍛錬しないとな。だけど」

「だけど?」

 衛宮士郎は私からセイバーに視線を移す。

「俺は納得してないから、セイバー。明日きっちりと話をつけるから」

 そう宣言した衛宮士郎にセイバーは答えない。だが、返事は期待してなかったのか衛宮士郎は私達に背を向けて土蔵へと歩いていった。
 その背を見送りながら右手の中の干将をくるくると回す。普通はこんなことはしないのだが、なんと言うか感触が常とは違うので、リハビリのような気持ちだったのかもしれない。
 そうやって私は、セイバーが言葉を口にするまで、延々と干将を回し続けた。

「何なのでしょうね」

 セイバーの声には、どこか冷たい所があった。先ほどの激昂とは正しく正反対のように思える。だが、それは表面的なものだったのかもしれない。熱いと感じるものが胸の奥に仕舞われただけ。そんな印象を受けた。

「どうして、あれくらいのことで私は怒ってしまったのでしょう」

 その問いに答える術を私は持たない。ただ、かつて似たようなことを私がセイバーに言ったことを思い出していた。何もかもが違っていたが。
 
「気に入らなかったのは、私が対象だから、ではないな?」

「――はい」

 なるほど、彼女はやはりセイバーであり、アルトリアである。疑いない事実であり、また哀しいことでもあった。
 かつては激情のままに彼女へと言葉を投げた。だが、今の私にそれを言う熱意も、資格もない。
 何しろ、私自身がそうやってここまで来てしまった。衛宮士郎を目の前にしながら、私は冷静で居られないというのに。
 私は短く。

「そうか……」

 そう言葉にして、右手の干将を地面へと突き刺す。ほとんど感覚的に放ったそれだが、地面に深々と突き立った。
 そして、残っていたお握りをセイバーに勧める。

「とにかく、こんなところで悩んでいても仕方あるまい。これでも食べて元気を出すのだな」

 最初はきょとんとしていたものの、私の言葉に無言で頷いたセイバーはゆっくりとお握りを口にした。その光景に微かな満足を覚えながら、私もお握りを頬張る。
 無言で残りのお握りを食べ続けるのは、普通ならそれほど妙な光景ではなかっただろう。
 ただし、ここは屋根の上であるし、時間も遅い。
 さぞや衛宮士郎の目には奇妙な光景に映っただろう。
 土蔵と、突き立てた干将を交互に見ていると、セイバーがポツリと呟いた。

「しかし、シロウが投影した剣が、まさかアーチャーのものだとは」

 その声に僅かな悔しさのようなものを感じた私は、何を言うべきか一瞬迷った。
 もしかしたら、セイバーは意図せずに呟いたのかもしれない。

「もし、奴が君の剣を投影したとしたら……」

 その迷いが、私の言葉を途中で止めてしまったのか。最後まで続けることができず、口を閉ざしてしまう。
 だが、それはセイバーの前では許されず。

「私が、どう思うと、貴女は考えたのですか? アーチャー」

 静かに続く言葉を問われた。
 
 長い沈黙が続いた。
 そして、セイバーの視線に負けて、私は言葉を発した。

「それは……嬉しいのかもしれないし。寂しいのかもしれないな」

 咄嗟に出てしまった言葉、本音は、自分でもあまり好ましいものではなく。
 慌ててそっぽを向くも、あまり意味はない。

「アーチャー。貴女は何を寂しいと?」

 セイバーの口調に楽しげなものを感じて、私はますますセイバーから顔をそらした。

「奴が、戦えるようになることに、感じるものがあるわけではないさ」

 本心からの言葉を言うも、これだけが真実ではない。真実を言うわけにはいかないのだ。
 奴が、セイバーの剣を投影していれば、嬉しかったかもしれない。
 だが、それは、私がセイバーの剣を投影したわけではないのだ。
 もし、衛宮士郎が、選定の剣を投影していたならば、私はきっと寂しかっただろう。
 隣にいる彼女が、かつて夜を駆け抜けたアルトリアとは違うのだと、突きつけられたような気になるだろう。
 それは、私が私であることを疑うことと、同じくらいつらいことだ。

 セイバーから顔をそらしているのは、自分の顔を見られたくないからでもある。
 考えていることが簡単に悟られてしまう今の自分では、どんな顔をするのかわからないのだから。

 つまらないことを考えまいと、小さく呪を呟き、獏耶を投影する。
 それを一回転させると、干将が突き立っている庭へと、同じように投げた。
 私の狙い通り干将の傍にに突き立った獏耶は、正しく夫婦の名を冠するに恥じない。

「私だって、シロウが貴女の剣を投影したことを羨ましいと思っているんですよ」

 先の悔しさを吐露するようなセイバー言葉だが、その口調は軽い。
 
「私は……私は自分の剣を投影されても、嬉しくない」

 その軽さにつられて、私はまたも本音を漏らしていた。
 それは事実である。
 嬉しいはずあろうか。衛宮士郎に投影されたのが私が得意とする剣だったなんて。
 確かにセイバーの剣よりもはるかに負担は少ないだろうが、それでも。気持ちよいものではないのだ。
 たとえ、私が用いる双剣そのものも投影によるものであるとしても、だ。
 そして、セイバーが羨ましいと言った言葉そのものが私にとって嬉しくない。
 それは、セイバーが衛宮士郎に、奴に投影してほしかった、と言っているわけで。
 衛宮士郎に望んでいるのだから。
 これではなく――

「あ、れ?」

 頭をよぎった違和感に、つい、言葉が漏れた。
 セイバーの視線を感じたが、私はそれどころではない。私はある場所を注視する。
 そうだ。私の視線の先には、私が投影した剣がある。
 私が。この手で。奴のものではない、私がこの手で――!

「―――はは、ははははははは!」

 それをはっきりと認識した途端。私の口からは笑い声が溢れていた。
 時間など関係ないと、私の理性を凌駕して、大きな声が上がる。
 太い声ではなく、セイバーと同じ声で笑うそれは、違和感があるものの、耳に心地よい響きでもある。
 
「アーチャー。いったい何を……!」

 突然の私の奇行と言っても過言ではない行動に、セイバーが慌てたような声を上げる。
 それすらも、楽しげに見えてしまった私は、ますますその声を大きくする。
 それでも、夜の静けさは私の声に勝っていた。

 空へと放たれる声は、私とセイバーの耳だけに。
 ほかの人間に伝わることなく。私が飽きるまで続けられた。
 
 無意識に行っていた投影は、何の解決ももたらさない。
 だが、それでも――私は可笑しく思えたのだ。
 たったこれだけのことが。この手にひとつの剣があることだけのことが。
 あの暗い苦悩を消し去るのかと。
 自分の苦悩がたいしたものではないと、そう思えて。
 私はセイバーの隣で、笑い続けた。
 銀色に輝く月の光の下で。私の不安はまるで通りもののように消えていた。


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