37



 何かが消え去ったような気がして、私はその違和感に目を覚ます。
 それは気のせい。正しいのはこの世界だ。間違いはない。あるとしたらその前。
 訳が分からない。自分が考えているというのに、表れるのは自分でもわからぬものばかり。

 音が聞こえる。
 それは、何かが泣くような音で、結局何なのかわからない。
 それを、私はぼんやりと聞いている。

 ……何処だろう、ここは?
 目が覚めたというのに、頭は思い出すという行為を面倒だとだらしなく停滞する。
 起きているというのに、結局起きていないという惰性。
 誰かが似たような人ではなかったか。

「ん、っ―――んあ」

 力を込める。何故か動かぬ両手は無視して、首だけを動かすことだけに、身体を鞭打つ。
 そのために漏れた言葉は、自由にならぬ体のように頼りない。
 どうやら、私はベッドに寄りかかっているらしい……。

 どれくらい、眠っていたのか。いや、どうして眠っていたのか。
 それを、起きてない頭で、考えようとする。
 僅かに走った頭痛は、眩暈を引き起こす。まるで誰かが言った泥酔後の朝のようだが。
 私は酒に弱かっただろうか。眠る前に何をしていたのかも解らぬ頭で、酒を飲んだかどうか思い出そうとする。

「ここは、―――」

 廃墟だろうか。
 僅かに見えるのは、瓦礫だった。
 瓦礫など、なってしまえばいくらも違いがない。そも、見えるのが瓦礫だけなら、ここがどこかなんて解らない。
 ただ、こんな場所で酒を飲むほど、自分は酒に溺れてはなかったと思考の端が告げた。
 そも、目がまだ良く見えない。

 音がまた聞こえる。
 規則的でない、きまぐれな音。それは音というよりはむしろ、何か意味のあるような。
 部屋に光はない。おそらくは夜なのだろう。僅かに、窓から星の光のようなものが、射している気がする。
 それでも、状況を把握しようとして私は、腕の中に誰かを抱いていることに気がついた。
 明かりもない、目も良く見えない、思い出せない。
 ないことばかりで、明確には判別できない。

 それでも、その誰かが、小さな少女であるということだけは、気がつくことが出来た。
 徐々に視界が回復していく。
 あまりに緩慢な回復では、はっきりと少女を認識することが出来ない。
 眠っているのか。視線を受けても反応のひとつもない。ただ、規則正しく、体が上下するだけ。
 あまりに、それが微弱すぎるので、まるで寝ているというよりは、停止しているように思えて、微かに伝わってくる温もりに安堵する。
 聞こえていた音は、その少女が発していたものらしい。
 僅かに呟くような声が、まるで何かが鳴いているような、そんな音に聞こえたのだろう。

「――――」

 とたん、少女が大きな反応をした。それに思わず自分もつられてしまった。
 ともすれば、少女が起きてしまうくらいに強い反応を。思わず少女の顔を見つめ、ぼうとした視界は、それが安らかなものと理解した。
 そうして、息を吐き出そうとして

「死な、ないで」

 そうはっきりと聞こえた言葉に、胸を締め付けられた。
 急速に視界が回復していく。同時に思考も、常の自分を取り戻した。
 何故、此処にいるのかも。

「イリヤ……」

 そう呟き、その白磁のような頬に残った涙を拭う。
 魔力によって編まれていたはずの鎧は、目が覚めたときから消えていたらしい。
 おかげで、胸に抱くイリヤが痛い思いも、そして涙を拭う手が物騒すぎることもなかった。

 先ほどは気がつかなかったが、窓から射す光は星だけではない。
 あれほど曇っていたというのに、今は月が顔を出している。
 今が夜だという意味を理解すると同時に何故、という気持ちが湧きあがる。
 自分がまだ現界していることも、イリヤが無事でここにいることも。

 イリヤが目を覚まさないように、体を動かす。
 視界も、思考も回復したが、どうやら身体の方はそうでもないらしい。
 四肢に力は入らず、どうあっても立ち上がろうとすれば、抱いているイリヤにも余計な力を加えることになるだろう。
 それでも、何時までもこうしているわけには行かない。
 眠っているイリヤの顔をもう一度見て笑うと、私は力を込めようとして―――

「いいえ、無理をなさらず。貴女様はまだ本調子ではないのでしょう。そのご様子ではお嬢様が起きてしまいます」

 いつのまにか近くに来ていたメイドに、阻まれることになった。

「―――む」

 廃墟にメイドというなんとも妙な組み合わせに押し黙る。
 決して、接近に気がつかなかったことを隠しているわけではない。なにしろ、本調子ではなかったのだし。
 どうやら、メイドは二人いるようだ。
 目の前に立つメイドの背後に、もう一人立っている。
 どちらも、濃い闇の中で白い装束が映えている。あえて色で分けるというのなら黒と、青だろうか。
 一見瓜二つのだが、よく見ると僅かに違う気がする。

「大丈夫。無理しないでいい。わたしが運ぶ」

 どこかたどたどしい言葉を発した、メイド―――黒い方の少女が、近づいてきて、ひょいとイリヤごと私を抱き上げた。
 私もイリヤも小さい部類とはいえ、二人合わせれば成人男性の体重に十分匹敵する。
 それを苦もなく抱き上げた力に感嘆する。表情にはなんら、苦があるようには見えない。それどころか、ほとんど無表情。どちらかというと、その表情は柔らかな笑みを浮かべているような気がする。
 しかし、今はそれよりも―――

「おちついて。イリヤが目を覚ます」

 どこか、子供をあやす様な優しさで言われれば、熱を持っていた頭も、幾分冷ますことが出来た。
 イリヤを見つめる視線の柔らかさや、イリヤと云う呼び方が、彼女とイリヤの近さを伝えてくれる。
 まさか、俗に言うお嬢様抱っこという代物だったがために、気が動転してしまった。
 よく考えれば、イリヤを抱いている以上二人同時に抱えるならこれしか方法がないとは、理解できるのだが。
 頬が紅くなるのは、許してもらいたい。状況を冷静に見てしまうと、服越しとはいえその存在を主張するあれを意識してしまう。
 しかし、これではあの小僧に言った言葉が、あまり効力を持たなく……。

「っ――――」

 叫び声をあげそうになって、それを無理やりかみ殺した。
 今の今まで気がつかなかった異常に歯噛みする。

 今の私は、凛とラインで繋がっていない。
 あれほど感じていたマスターとの繋がりが、露ほどにも残ってはいない。
 魔力は、たいして減っているようには思えない。弓兵が持つスキルゆえのことだろう。
 アーチャーである私は現界し、しかしそのマスターとの繋がりが絶えたということは。
 まさか、凛は―――

「安心してください。私の美学に反しますが、お嬢様を助けてくださった貴女様のためです。貴女様のその状況の説明は出来ませんが、貴女様の主が現在無事であることは保障いたしましょう」

 私の表情から、何を考えているのか読み取ったのか。初めに声をかけてきたメイドが解をもたらした。
 その声はあくまで平坦だったが、その声の響きに嘘はない。
 確か、彼女―――セラは卓越した魔術の使い手であったはず。ここにいない凛のことを把握しているのは、なんらかの魔術によるものか。
 忘れていた記憶の封に亀裂が入る。ああ、つまり、俺を抱いているのがリズ、リーゼリットか。  二人とも、イリヤの―――

「ええ、ですから貴女様は今、為すべきことを為さいませ。その、力の入らぬ身では、貴女様の主にさえ辿り着けないでしょう。幸い、貴女様はお嬢様の恩人です。私共で、できるだけのことはいたしましょう」

「大丈夫、すぐによくなる」

 二人の言葉に、一瞬押し黙り、小さく言葉を返した。

「―――感謝を」

「失礼。申し送れました。私どもはイリヤスフィールお嬢様のお世話をさせていただかせております。セラと、リーゼリットと申します。以後、お見知りおきを」

「よろしく、アーチャー」

 凛がこれからも無事であるという保証は何処にもない。今が聖杯戦争という争いの真っ只中であることに間違いはないのだから。
 だが、自分がこの体たらくでは、何をすることも出来ない。自分ひとりでは、この森を抜けることもできないかもしれない。
 ギルガメッシュから逃げた時のような方法を使えば、何とかなるかもしれないが。マスターという依り代を失った現在、魔力の消費がどうなっているのか。
 ならば、せめて自分の足で大地を駆けるくらいには回復する必要があるだろう。
 何故、このように体が満足に動かないのかは解らないが、これが一時のものであることは間違いない。
 二人のメイドの言葉は願ってもないことだ。
 凛と衛宮士郎を信じて、私は自身の万全を目指そう。

「理解してくださいましたか。でしたら、大人しくしていてくださいませ。随分と―――安らかに眠ってらっしゃる様子ですから」

 そう、イリヤを見つめるセラの視線も、リズに負けず柔らかい。
 その視線の柔らかさにか、私を抱くリズの温かさにか、どちらにせよ、安心させられた私は、目を閉じる。途端に私を睡魔が襲う。その欲求に抗うことも出来ず、私はまるで揺り籠に揺れる赤子のように、深い眠りへと誘われた。
 それは、この身になってから初めての、眠り、だった。



 interlude




 二月十日



 キシリ、キシリと音がする。
 して綺麗な音じゃない。金属が擦れあう様な音が何十とする。もしかすると何百かもしれないし、もっとするかもしれない。
 見えるのはどこか乾いた荒野と、一面に刺さる、墓標のような剣。
 乾いた黄砂は、止まず吹き荒び、突き立てられた剣は、担い手すらいない。

 空を覆うのは場違いな歯車だ。何を動力にしているのか、中空に浮いた無数のそれらは、止まることを知らず回り続ける。
 ここはまるで廃棄場。
 だけど、音がするのはこの場所じゃない。
 剣は突き立っているだけで、音がするはずもない。砂を巻き上げる風も、回り続ける歯車も全ては音を発しない。
 じゃあ、何が音を立てているのかと、自分の身体を見てみると―――

「ん、――――っあ」

 目が覚める。窓の外はまだ暗く、曇天の雲は晴れる気がないのか。
 吐く息が、僅かに白い。夜が更ける、少し前か。
 冬木市がいくら暖冬といっても、さすがにこの時刻は肌寒い。

 アインツベルンの森は遠い。
 行きはタクシーを利用することも出来たが、帰りはそうもいかない。
 結果、こうして自分の家に帰り着いた時には、とうに日は暮れていた。
 状況は最悪だったが、諦めてはいなかった。
 もはや、残された手段はほとんどないとはいえ、疲れたままでは頭が働かないでしょ、とは遠坂の弁。
 強引に休息をとる羽目になったわけだが、やはり疲れていたのだろう。驚くほど簡単に、俺の意識は闇へと没した。

 それももう、終わり。
 何か、妙な夢を見たが夢は夢だ。自分の体が数え切れないほどの剣になったなんて考えるだけでもぞっとしない。
 やはり、どこか弱気になっているのだろう。
 いつもより、僅かに早い時間だったが、気合を入れるように両頬を叩くと、俺は立ち上がって行動を開始した。
 何も解決はしていない。事態が良い方向に向かっているはずもない。
 それでも、やるべきことは決まっている。
 だから、その前に――――。
 疲れは取れたとはいえ空腹では、何かいい案が浮かぶわけがないのだから。



 食器の音がカチャカチャと鳴る。
 時刻は朝の六時を過ぎようというところ。
 音といっても、それはすでに片付けの段階だ。

「へぇ、衛宮くんって紅茶も淹れられたのね」

「ただのティーバッグだけどな」

 洗い物を片付けながら遠坂に応える。
 遠坂はもともと朝食を取らない主義だったらしいが、この屋敷に来てからはこうして食べてくれる。
 たった二人きりになってしまったとはいえ、こうしていっしょに食事をする相手がいるということは嬉しかった。
 その食事も終わり、今はこれから作戦を練る、という段階だ。
 ただ、それだけでは味気ないので、とアーチャーが買っていたブツを使ったのだが。

 存外上手くいったらしい。

 遠坂に出した時は、何かよくわからない種の表情をされたのだが、黙って受け取ってくれた。
 先の言葉は、紅茶を出したことではなく、美味く淹れる、という意味の言葉だったわけで。
 内心、少し心配していただけに、その事実が少し嬉しかった。
 エプロンを外しながら居間に戻る。
 僅かに緩んだ頬を引き締めて、遠坂の前に座った。

「さて、これからどうするかだけど、何か考えある?」

「――――いや。状況は悪化してるし、いまいち解らない所もあるから」

 どうして、遠坂が言う様にイリヤスフィールは追ってこなかったのか。
 あの森にいなかったとしたら、あの少女は何処に行ったのだろうか。

「そうね。綺礼がいたら何か解ったかもしれないけど。あいつ、何処に居るのかしら」

 そういえば、教会もキャスターに落とされてしまったんだった。
 気に入らない神父だったが、監督役とやらがいなくて、聖杯戦争はやっていけるのだろうか。
 ともすれば、弱気取られそうな言葉を慌てて飲み込む。その代わりに。

「まさか、俺たちの協力を断って、キャスターを討ちに行った、なんてことはないよな?」

 ふと、思いついたことを口にする。
 イリヤスフィールのあの口ぶりなら、そのくらいのことをやってしまいそうだが。

「――――どうかしら。それなら、キャスターも少なからずなにか打撃を受けてると思うけど」

 遠坂にも判らないらしい。
 もっとも、そんな不確定な要素に頼るわけにもいかない。
 キャスターが三人ものサーヴァントを従え続けるのなら、魔術と関りない人間が犠牲になり続けるかもしれない。
 三人を維持している魔力。それこそが人の魂なのだから。

「とにかく、イリヤスフィールと共闘は出来なかったけど、キャスターを放っておく訳にはいかない。なんとか、二人でキャスターをどうにかする方法を考えよう」

「そうね。何もいいアイディアないけど、それしかないか」

 はあ、と溜め息を吐きながら紅茶を飲む。
 それにならって自分も、さっき淹れた紅茶を口にした。

 あ、おいしい。

 そうして、二人して気を抜いた瞬間。

「あ―――、やめとけやめとけ。お前たち二人でキャスターをどうにかするだ? そんなの通用するかよ。間抜け」

 そんな声が響き、かつての夜と同じように、天井からそいつは舞い降りた。
 音を立てずに着地したそいつの手には、物騒な紅い槍。

「よ、お二人さん。いつぞやの夜以来だな。お互いしぶとく生き残ってるようで、結構なことだぜ」

 かつての殺気は微塵も発さず、気安く声をかけてくる。
 それだけたって、やっと俺たちは、襲撃者に反応することが出来た。

「ランサーっ―――」

「嘘、結界は何も反応を―――」

 俺はかつて自分を殺した相手の名前を呟き、遠坂はこの襲撃に反応できなかったことに憤る。
 サーヴァントを前に緊張を隠せない俺たちに対して、ランサーは鳥の羽のような軽さで、答えを告げた。
 敵対しているのがまるで嘘のようなその大っぴらさは、その圧倒的な自分の力に対する信頼からか。

「あ―、あれね。何でかは知らねえけど、なかったぞ、その結界」

「あっ」

 間抜けな声を出したのは俺か遠坂か。どっちでもいいが、セイバーを奪われたあの夜。キャスターに消されてそのままだった。
 それを忘れていた二人ともが間抜け。強いて言えば自分の家なのに忘れていた自分の方が罪は重い。
 だが、それも一瞬。ここは室内とはいえ、相手はあのランサーだ。今は敵意のカケラも見せていないが、油断など微塵もできるはずがない。奴の槍はこんな場所でも、まるで関係ないと美しい軌跡を描くのだから。

「それで、何の用なの、ランサー」

 遠坂はいまにも魔術をぶっ放しそうに身構えて、言葉を発した。
 それに、応えるように俺も咄嗟に掴んでいた竹刀袋から木刀を取り出す。

「そうだな、なんていうか。オマエ達二人の手助けをしてやろうか、なんてでしゃばろうかと考えている最中だ」

 は―――? 今、なんて言ったこいつ?
 何か思いもよらない言葉をかけられたような気がしたけど。

「それって、ランサー。貴方が私たちに協力してもいいって言ってるように聞こえるんだけど」

 遠坂は冷静にランサーの言葉を受け取ったらしい。
 その言葉で、迷走しかけた俺の頭も、なんとか真っ直ぐに立て直す。
 あいつは本気で言っている。かつて、アーチャーやセイバーと戦ったことも、俺を殺しかけたことも。
 あいつは何も気にしている様子はない。

「ああ、間違っちゃいねえよ。オマエ達二人じゃ、絶対にキャスターを倒すのは無理だからな。協力してやってもいいか、って思ってる最中なんだが」

 そう言って、ランサーは視線を遠坂から俺へと移す。その瞳には何か含みがあるような気がして……。

「それが本当なら。こっちは助かるけど。ランサー、それは貴方の考えかしら?」

「いや、違うな。これはマスターの考えだ。キャスターがああなっちまった以上、家のマスターも協力者が欲しいんだと。ま、あくまでキャスターを倒すまでだがな。それで、オレがここに来たわけなんだが」

「そう。じゃあ聞くけど。なんで、バーサーカーのほうにいかなかったのかしら?」

「ん? オマエ達、知らなかったのか? バーサーカーは脱落したぜ。誰が倒したのかまでは知らねえけどよ。俺はてっきりこっちのアーチャーと相打ちになったんだと思ってたぜ。あいつとは再戦楽しみにしてたんだけどな」

 残念そうな顔を隠しもしない。ランサーは思ってた以上に戦闘狂なのかもしれない。
 だが、それよりも新たな事実に僅かに動揺してしまった。
 バーサーカーが負けた? つまり、アーチャーが倒してしまった、ということなのだろうか。
 だけど、アーチャーはいない。それは、やっぱりランサーが言うように相打ちで消えてしまったってことに。
 俺がアーチャーのことで動揺している間に、遠坂は話を進める。
 傍目には、ランサーの言葉で遠坂が何を感じたのか、窺うことは出来なかった。

「そう。それでランサー。さっきから煮え切らないみたいだけど、私たちに協力するのに、何か条件があるわけ?」

「まあ、待ちな。それでそっちの方はどうなんだ? 俺と協力する気はあるか?」

「ええ、貴方が手伝ってくれるなら、私も助かる」

「で、そっちの小僧は?」

「俺は―――」

 遠坂は即答した。ランサーの人柄くらいは、俺でも何とかわかってきている。こいつは協力したら、裏切るなんてことは絶対にしない奴だろう。確かに一度殺され、殺されかけた相手だけど。マスター、いや魔術師にとってそれは何もおかしくはない。俺が半人前だとて、ここに立っている以上は―――

「いいだろう。俺も、協力することに問題はない」

 はっきりと答えた。ランサーの目を正面から見据えて。

「で、条件は? ランサー。さっきも言ったけど、あるんでしょ」

「へっ、まあな。嬢ちゃん。オレはアンタのことは結構気に入ってるんだ。だから、アンタに協力することは全然問題ない。だがな、オレはまだ、そっちの小僧のことは認めてねえんだ。あー勘違いすんなよ。お前がお人よしな奴ってのはわかる。なんてったって、嬢ちゃんが協力するくらいだしな。だがな、足りねえんだ、それだけじゃ」

 そう言ったランサーは、にやりと笑う。室内だというのに、弧を描くように槍を振るいその切っ先を俺の喉元に向ける。

「だから、見せてみろよ、小僧。お前の覚悟って奴をよ」

「ちょ、ちょっと待って。それって―――」

「わかった。だが、ここでやるのは困る。庭でいいか?」

 遠坂の言葉を遮り、ランサーに応える。ようはランサーに俺の力を見せろってことだろう。

 ガチリと、何かが音を立てた。

「いいぜ、いいぜ、問題ない。結構話がわかるじゃないか」

「衛宮くん。あなた……」

「大丈夫。俺たちにはあいつの協力が必要だ。それに、おれもここで降りる気はないから」

 手を出さないでくれ、と遠坂に瞳で謝った。
 木刀を握って、縁側から庭に降りる。
 ランサーは笑みを絶やさぬまま、俺と数メートル離れて向かい合った。

「安心しろよ。さすがに本気はださねえから。ま、でも楽しくないとな。あの夜よりは速くいくぜ?」

 それには答えず、自己に埋没する。
 強化するのは木刀。全ての工程を省き、瞬時に鋼鉄並みの強度を作り上げた。

「準備は出来たみたいだな。それじゃあ、始めるとするか」

 これから、戦うというのにまるで、どこぞに買い物に行くような気安さだ。だが―――

「っつ―――」

 閃光と化した槍の切っ先を、木刀で咄嗟に弾いた。
 この通り、ランサーと俺にはそれを補って余りあるほどの、明確な差が存在する!

「ほぅ、随分とうまくなってるじゃねえか。じゃあ、もちっと速くするから、簡単には死ぬなよ?」

 そんなことはない。今のは冗談みたいなまぐれだ。見えてすらいない。
 それがもっと速くなるなんて。

「ぃつ!?」

 考える暇もない。慌てて迫りくる槍に木刀を合わせる。
 眉間、喉、心臓。瞬く間に放たれた槍をぎりぎりで回避する。
 勢いを殺せず、思わず数歩下がってしまったが、傷はない。追撃はなかったが、僅か四度、ランサーの槍を受けただけで木刀は死んでいた。

「お?」

 声はランサーのものだが、驚いてない人間はここにいない。
 遠坂も、そして俺もそれ以上に驚いていた。

 ランサーの槍は、手を抜いているとはいえ、俺くらいの技量で真正面から防ぐことは出来ない。
 それは、遠坂にしても同様。
 だが、防いでいる。防げている。セイバーと鍛錬したから? 否、ランサー以上に、セイバーは手加減してくれていた。
 何より、あの鍛錬では防げてすらいない。
 ライダーとの戦いが、俺に経験を与えた? 否、あの時出来たのはせいぜい命を守ることだけだ。
 なら何故?
 そもそも、どうして俺は、ランサーと戦うことに、何の疑問も抱かなかった?

「どうやら、その棒切れも限界みてえだが、それで品切れってことは、ねえよな!」

 思考は一瞬。だが、それとて、この相手には命取り。
 一歩踏み込んだランサーが、槍を突き出す。
 それは、以前と変わらぬ閃光。稲妻の如き神速の槍。
 それは、やはり、見えない―――

「がっ!?」

 だが、木刀はそれを止めた。役目を終えて、その身は完全に死してしまったが。

「――――」

「へっ、ここまでか?」

 遠坂が息を呑む。ランサーが笑う。第二刃が一秒を待たず放たれるだろう。
 だが、手にはもう、防ぐものがない。

 だが、なんだ? 何故、俺はこうまで落ち着いている?
 加速していく思考は、ランサーの動きさえ緩慢に見せかけ、死への時間を長くする。
 魔力は―――魔術回路には既に火が入っている。
 回路は―――閉じていたものも、落としたときにこじ開けた。
 不具合は―――問題ない。とうの昔に、終わらせた。
 俺の意思を越えて、俺の身体はランサーに向かって一歩踏み出し―――

「―――投影、開始!」

 その言葉を紡ぎだす―――

「お?」

「嘘!?」

 俺は両手に持った双剣を全力でランサーの槍にぶつけていた。
 やはり、手を抜いてくれているのだろう。
 俺の力程度で、ランサーの槍が大きく跳ね上がっていた。

「っ、ず、はぁ―――」

 陽剣干将、陰剣莫耶。森で手に取った剣と、寸分違わぬ双剣が俺の手に握られている。
 大きく息を吐く。投影、しかも宝具の域に達している剣を模したというのに、身体は何の異常もない。
 ランサーの槍を受けている両腕が、痺れているくらいだ。

 ―――だから、今はこの耐え難い頭痛をどうにかして欲しい……。

  「へぇ、オモシレエモノ持ってるじゃねえか。次で最後だ。せいぜい死ぬな―――!」

 速い―――見えない! 頭は敗北を認めようとしている。
 俺じゃあ、アーチャーの剣を持っていても戦えない。衛宮士郎ではその技術がない。
 だが、頭ごと吹き飛ばそうという第一撃を、右手の干将が跳ね上げる。
 右手が戻るよりも早く、引き戻された槍が心臓を貫く第二撃を、左の莫耶が打ち落とす。
 そして、第三撃も第四も第五も第六も―――俺の両腕は打ち落とし
 七つ目の払いで、俺の双剣は弾き飛ばされていた。

 投影に成功しても、俺は負けを認めようとした。
 だけど、身体は俺の心に反して、尽くランサーの槍をしのいだ。

 なら、俺がそれに対抗するものを造らなくてどうする。
 際限なく熱くなっていく内面と、眼前に迫る紅い槍。
 俺は、まだ、ここで下りるわけにはいかない!

「っつ――――ああ!」

 直前で間に合った、双剣がかろうじてランサーの槍をしのいだ。
 自分の意思とは思えなかった最初の投影とは違い、今度の双剣はなんとも粗雑だ。
 何しろ、たった一度、ランサーの槍を受けただけで、存在が薄れてしまっている。

 だけど、これは間違いなく俺の意思だ。例え無様でも、俺自身はまだ、負けを認めちゃいない。

 そう瞳でランサーを睨みつけたが、肝心のランサーはとっくに俺から離れていた。

「いいんじゃねえのか、それくらいできれば。協力してやるよ」

 なんて、言いながら笑ってやがる。
 それで、体の力がどっと抜けたのか、俺は無様にも尻餅をついた。

「ちょ、ランサー。さっきのはやりすぎなんじゃないの?」

「まあよ。俺としちゃあ、最初のだけでよかったんだけどよ。坊主がやる気出してるし、あんまり綺麗に捌くからよ。ちょっと楽しくなっちまった。いいじゃねえか、生きてんだし」

 ランサーと遠坂の会話を、どこか人事のように眺めている。
 聞き捨てならないことを聞いたかもしれないが、それ以上に両手に残る重さが心地よかった。

「それより、士郎! あんた大丈夫なの!?」

 それは、ランサーの槍を受けたからなのか、投影をしたからなのか。とにかく、心配してくれるのはありがたいけど。
 遠坂、よっぽど熱くなってるみたいだなあ。呼び捨てになってるし。
 なんて、思わず遠坂の顔を眺めてしまった。
 それに気がつかない遠坂はつかつかと近づいてきて、乱暴に俺の両手をつかんだ。

「どう? どこかおかしいところある?」

「いや、別に痛いところはない。せいぜい槍を受けた手が痺れてるくらいだ」

 言葉通り、どこか悪いのかと訊かれれば、その程度のことしか答えることができない。
 頭を悩ませていた頭痛も、二度目の投影の時に消えてしまった。
 それよりも、そんな乱暴にすると、双剣で傷つけそうで怖いのだが。
 両手を慌てて引っ込める。いくら投影で、精度もあまり良くないとはいえ、物騒な物に変わりない。

「ホントに!? 嘘じゃないでしょうね」

 信用していないのか、遠坂はジト目で俺の顔を睨む。
 あんまり、近くにこられると、俺としてはその―――

「それくらいにしといてやれよ、嬢ちゃん。坊主の顔、真っ赤になっちまってるぜ」

「何言ってんのよ。ランサー、貴方がやりすぎるから心配してるんじゃない。茶化さないで」

 俺の顔が真っ赤になってることに気がつかないのか。遠坂は躊躇も何もない。別の意味で顔を真っ赤にしているけど。

「大丈夫だよ。さすがにランサーも殺すつもりはなかったみたいだし」

「いや、悪い坊主。けっこうマジにやばい所狙ってた。なんつーか、あの夜心臓刺しても生きてたから、なんとかなるかなーってな。もちろん、“ゲイボルグ”までは使うつもりはなかったけどな」

「無茶言わないで! 心臓刺されて生き返るなんて、もう出来ないんだから」

 遠坂の熱はまだ冷めないらしい。なんでか、俺が死んでたこと知ってるみたいだけど、遠坂に話しただろうか?
 それに―――今の俺に“ゲイボルグ”で刺されて、耐える自信はない。
 あれは、痛い、なんて生易しいものではない。俺にはまだ、あのときのような耐えることが出来る理由―――欲がない……。

「衛宮くん、どうしたの? ぼうっとしちゃって。やっぱりどこか痛むの?」

「―――!? んあっ、大丈夫。大丈夫だから遠坂、もう少し離れてくれないか」

 心配そうに遠坂が見つめている。どうやら、考え事をしていることが、どこか具合が悪いように映ったらしい。
 それは素直に嬉しいのだが、やっぱり慣れないこの状況に鼓動が早くなる。

「本当でしょうねぇ」

「あ、ああ」

 さらに顔を近づけてくる遠坂に向かって、かろうじて声を絞り出す。
 掠れてしまった声は、それでもなんとか意思を伝えて。

「まあいいわ。それで、ランサー。貴方、自分の役目は解ってるんでしょうね」

 遠坂はまだ、ランサーに対して怒りが収まらないのか、その声は物騒極まりない。

「まあな、最悪、三人が相手になるわけだが。ま、なんとかなるだろう」

「なんとかなるって、ランサー、本当に大丈夫なの?」

「あんまり、大丈夫じゃねえな。セイバーはともかく、あっちのアーチャーは、まだやり合ってねえし、アサシンの野郎は苦手なんだが―――受けるからには、なんとかしねえとな」

 ランサーは獰猛な笑みを浮かべる。
 あの顔は本当にどうにかするつもりだ。恐れなど微塵も感じていない。
 陣容はアーチャーとランサーが変わっただけ。
 アーチャーとランサー。二人に力の差はないように見える。いや、単純に存在感を比べるならば、アーチャーはバーサーカーと並んで圧倒的だ。その点に関しては疑いようがない。だが、強さの質がちがうのだろう。
 ランサーの速さ。それはアーチャーにはなかったものだ。それが決定的な違いだろうか。
 アーチャーの強さは力、だと思う。あの圧倒的な力は、一対一では強力だけど、多数を相手するには向いてないのだろう。
 バーサーカーと正面から斬り合える強みはあるけど。そもそも、アーチャーなら弓が得意のはずなのだが……。
 思考がそれた。とにかく、俺が知らないセイバーの宝具とやらも、ランサーの俊敏性とその戦闘経験から抑え込めるのかもしれない。

「それに、アサシンに限って言えば、門を越えちまえば手出しできねえしよ」

「それは、どういうことかしら、ランサー」

「もう知ってると思うけどよ。アサシンはキャスターに呼び出されたサーヴァントだ。そのせいで、本来呼び出されるはずだったアサシンとは違うものが呼び出されちまったわけだが。それ故に制約が存在する。あいつはあの場所そのものに呼び出されたわけだから、結局あの場所を動けねえのさ。厄介な場所だがな」

 アサシンがキャスターに呼び出されたサーヴァント。それ自体はアーチャーに教えられたことである。
 だが、その結果起こる弊害には気付いてないようだった。ランサーはどうやってそのことを見抜いたのか。

「そうか。忘れてたけど、ランサー。貴方って白兵戦だけが得意ってわけじゃなかったわね」

 その遠坂の言葉で思い出した。ランサー、クーフーリンは影の国で原初のルーンを学んだ卓越したルーン使いだったのだ。
 そして、斥候の達人でもある。
 もちろん、それがアサシンの特性を見抜いたかどうかとは関係ない。
 実際はランサーではなく、そのマスターが見抜いたのかもしれないからだ。
 大事なのは、固定観念をもってはいけないということ。

「とにかく、俺がキャスターまでの露払いをするのが理想的なんだがっなっ!」

 槍で肩を叩いていたランサーが、瞬きするよりも速く、俺の前まで移動し頭上で槍を払った。
 それと同時に金属を叩く甲高い音が鳴った。
 数は三つ。払われた矢が、庭に突き刺さる。

「まさか、そっちからやってくるとはな。それにしては、いささかお行儀が悪いんじゃないか、アーチャー?」

 ランサーが叫んだ方向、そこには、紅い騎士。キャスターに付くもう一人のアーチャーの姿があった。
 その手から、弓を消し徒手空拳になると塀から降り立つ。
 その顔には、ランサーとは種類が違うものの笑みが浮かんでいた。

「そう言うな、ランサー。弓兵という立場上、まっとうな戦いは苦手でね」

「はっ、確かにな。俺からこそこそと逃げ回ってただけはある」

「何、無駄な戦いは好む所ではないのだ。今回は、まあ、私情という奴だ」

「はっ、どんなもんだかしれねえが。さっきのからすると、やる気はあるんだろ?」

 ランサーが挑発する。アーチャーにやる気がないのは、誰の目にも明らかだ。
 それが何故、俺に向けて矢を射てきたのか。
 先ほどの矢は、かつて射られたときに比べると、手を抜いていたように思える。
 まるで、何かを試すように射たような。

「仕方あるまい。まさか、君がそちら側に付くとは思わなかったのでね。あまり気は乗らないのだが」

 やはり、まったくやる気はないようで、顔も少し呆れ顔だ。
 だが、その顔とは裏腹に、奴は両手に、あの双剣を投影した。

「―――む?そいつは―――」

 ランサーの声に驚きが混じる。ランサーは目の前のアーチャーと戦うのは、口ぶりからして初めてらしい。
 そして、俺があの夜見た戦いでは――遠坂のアーチャーは長剣を使っていた。

 ランサーが今まで何をしていたのかは知らないが、恐らく二人のアーチャーがあの双剣を使っていたことを知らないのだろう。

 ランサーはこちらまで切り裂きそうな、鋭い刃の如き殺気をアーチャーに向ける。
 それに対して、アーチャーは全てを圧するような殺気でランサーを見据えていた。

 もはや、どちらの顔にも遊びはない。
 沈黙は、永遠の如く続くかと思えて、その実、一秒と続かなかった。

「しっ―――」

 仕掛けたのは予想外にもアーチャーだった。
 ランサーとの距離を疾走し、俺よりも遥かに巧みに双剣を使う。

 だが、ランサーとて負けていない。
 アーチャーを剣の間合いに入れまいと、瀑布の如き刺突を見舞う。

 両者一歩も引かぬ刃の演舞。
 俺も遠坂も見守ることしか出来ない。
 俺程度の実力では、あそこに入るだけで容易く二桁は死ぬだろう。
 遠坂の魔術はどうかしらないが、多分、今までの経験上結構大雑把な気がする。

 あまりに高速な戦闘は、傍から見ても把握はできない。
 ただ、ランサーとアーチャーは、筋力も、速さのどちらも、ランサーが上回っていた。

 だからなのか。アーチャーは俺と同じようにランサーに自分の得物を弾き飛ばされる。
 だが、ランサーが次の攻撃を仕掛けた時には既に、寸分違わぬ剣がアーチャーの手には用意されていた。

 目に見える戦いは残像すら生まぬ高速のやり取り。
 一瞬に見える攻防も、その実百を超える打ち合いなのだろう。
 俺にやったのとは比べ物にならないランサーの攻撃は、度々アーチャーの双剣を虚空へと弾く。
 だが、それすらもサーヴァント同士の戦いでは隙となりうるのか。
 突きから払う動作に変える瞬間、僅かにランサーの戻りが遅くなる。
 得物を飛ばされたはずのアーチャーは、どこからともなく得物を取り出し、その度にランサーへと足を進める。
 ランサーは自身の領域は守るものの、一歩後退する。
 それは―――弾き飛ばされることすら前提におかれた剣。
 守りながらも、ただ進む、まるで作業のような戦いだ。

 それが、また頭痛を呼び起こす――――

 その時、ランサーが後ろに飛びのいた。
 たいした距離ではない。せいぜい20メートルほどだ。
 アーチャーには追撃する意志はなかったらしい。だが、どこか納得の行かない顔をしている。

「ちっ、いったいいくつもってやがんだ。20は下らないはずだぜ」

「それはこっちの台詞だ。まさか手を抜かれるとは思いもしなかった」

 手を抜いている―――? 俺がランサーの戦う姿を見たのは全部で三回。
 どれも、理解などできない高みでのそれだったが、そこにたいした違いはないように見えた。
 だが、ランサーの顔はアーチャーの言が正しいとでも言うように憮然とした表情をしている。

「なるほど。そういや、テメエも同じようなことをしてやがったか。はっ、タヌキが。アーチャーってのはどいつもこいつも。こんなのばかりかよ」

「―――誰のことを言っているのか、大体解るが。比較されてもな……」

 そう言ったアーチャーは、どこか気まずそうな顔をしている。
 いけ好かない奴に見えたが、どうやら思いがけない顔も持つらしい。

「悪かったな。テメエなんかと比べたら、あの嬢ちゃんに悪かったな」

「まったくだ。君は判り易すぎるのは考え物だと思うぞ」

「ふん、知るかよ。俺は俺だ。それで文句あるまい。テメエは邪魔だ。ここでけりをつけるぜ」

「ふむ。君の望みにこたえてやりたいのは山々なのだが……。どうやら、そうもいかないらしい」

 そう言ったアーチャーの体が光に輝いた。
 その光は瞬く間に増していき、皆の視界を焼く――――

「ちっ、あれは令呪の光か。キャスターに呼び戻されたな」

 ようやく視界が戻ったその時、ランサーがそう呟くのが聞こえた。









 突如、サーヴァントとしての身に、逆らえぬ力が働く。
 その強制力に逆らわず、初めての行使に身を任せたアーチャーは、改めてキャスターの魔術師としての力量に内心感嘆した。
 同時に、それに抵抗するセイバーの強さに、僅かな羨望を覚える。
 その、誇りというべきものを自分は持っていない。持つことが出来なかったから。

 キャスターは、この時代の魔術師と比較すれば、呆れるくらいに正しい魔術師然としている。
 確かに、慣れぬ外道の業を使い、当初などは加減の勝手も判らなかったようだが。
 それでも、彼女の必要な時以外には、それを行使しないというあり方は徹底したものだった。
 その反面、自分の害となるものに対しては容赦なく排除しようとする。

 ―――おそらくは、ただならぬ状況に陥っているのだろう。

 それも、アーチャーを呼び出す必要に駆られるくらいには。
 アーチャーにしてみても、ランサーとの戦いは望む所ではなかった。
 そこからの離脱は、相当に難しかったはずだが、その点においてはキャスターの行為に感謝している。
 まさか、かの夜からたいした時も経たぬうちに、彼女が消えるとは思っていなかったがために、強引な方法を取ってしまった。
 どうやら、少し感情的になってしまったのである。
 それが、衛宮士郎がランサーと見せた不可解な戦闘に関してなのか。
 自分を二度も阻んだ相手が、あまりにもあっさりと消えてしまったことなのか。
 アーチャーにも判断することは出来なかった。

 令呪の強制力が霧散し、視界が通常のものに戻る。
 その、最初の光景を見た瞬間にアーチャーは、これから臨む戦いがランサーと戦うそれ以上に困難であろうことを理解し、再び感情の歯車を固定した。


 interlude out



「おはよう、アーチャー。気分はどうかしら?」

 眼を開き、初めに聞いたのがそれだった。
 僅かにぼやけた視界の先には、たくさんのぬいぐるみが見える。
 ―――もっとも、目覚めの言葉をかけてくれた少女さえ、自分の顔を隠して、ぬいぐるみで喋りかけているわけだが。

「ああ、悪くはない。だが、素顔のイリヤの方が、私は良かったかな」

 身体を起こした私は、眼前の少女、イリヤにおはようと言った。

「おはよう、アーチャー。元気そうで何よりだわ」

 ぬいぐるみから顔を出したイリヤは嬉しそうに、笑っている。
 そして持っていたぬいぐるみを、他のぬいぐるみと同様に並べる。
 その動に淀みはないし躊躇もない。まさに使い慣れて、いや、やり慣れているといったしなやかさ。
 どうやら、ここはイリヤの部屋らしい。
 彼女に相応しいものをと願う、セラの気迫も随所に感じられる。
 まあ、趣向を凝らした調度品よりも目を引くぬいぐるみ達が、彼女の趣味かどうかは私にはわからなかったが。

 私はイリヤのベッドに寝かされていたらしい。
 イリヤと私を軽々と受け入れたであろう巨大な寝具。
 イリヤを抱いたまま、リズに抱えられ、不覚にも私は眠ってしまったのだが。

「一緒に寝ていたのか? 私たちは?」

「うん、そうだよ。バーサーカーとは大きすぎて出来なかったけど、アーチャーくらいの背なら、このベッドで十分だもの。とても、気持ちよかった……」

 嬉しそうな顔は、反面、瞳に残る悲しみを隠しきれていなかった。
 バーサーカーが消えてしまったことを、私は理解している。
 私には、イリヤとバーサーカーとの間に、どんな交流があったのかはわからない。バーサーカーがそのクラスにより真っ当な理性があったのかどうかも。だが、ギルガメッシュとの戦いで見せたあの姿は、イリヤがバーサーカーに寄せる信頼は。そんな障害など関係ないと、告げているように見えた。それこそ、サーヴァントとマスターの関係は千差万別であり、侵しがたいもの。尊いものだった……。

「ああ、私もイリヤと一緒に寝ることができて、よかった」

 だから、出来るのはイリヤに微笑んでやるだけ。
 そう言って、立ち上がる。まだ、十全とはいかないがかなりの力が戻ってきているようだ。
 それと同時に扉を叩く音が鳴る。

「いいわよ、セラ」

「失礼します」

 入ってきたのはセラだった。昨日と同じ、表情の変わらぬ顔で私を見つめる。

「おはようございます。どうやら、もう大丈夫のご様子ですね」

 一目見ただけで、体の状況を把握したその観察眼は見事というほかない。
 その瞳の奥には、なんとなく、私をイリヤといっしょに寝かせたことへの、何かの感情が渦巻いている。
 それが、妬みなのか、憤りなのか、後悔なのか。判別することは難しかった。

「ああ、おかげさまで。それで、私はどれくらい眠っていたのだろうか?」

「せいぜい数時間といった所でしょうか。今は六時を、少し過ぎたといったところです」

「ありがとう。では―――」

 理由は判らぬが契約が切れてしまった。だが、依然として私が凛のサーヴァントであることに変わりはない。
 手を握る。今は六割くらいだろうか。どうやら、懸念していた魔力にしても、たいして減ってはいない。それだけあれば、凛の所へ赴くのに何の問題もないだろう。
 新たな決意を胸に、感謝の言葉と共に、この城を去ることを告げようとして―――

「おまちください」

 セラの声に引き止められた。

「どうやら、すぐにご出立されるおつもりのご様子。ですが、その様相はいただけません。せめて、その髪だけでも整えてはどうでしょうか?」

 その言葉に、僅かな疑問を感じる。様相とは、この服のことだろうか。
 それならば、鎧自体は魔力で編んでいる以上、戦闘に支障はない。身体はともかく、魔力に異常はない。
 それだけならば、何のためらいもなかったのだが。

「もう、行っちゃうの? アーチャー」

 イリヤの声に私は動くことが出来なかった。
 不安そうな声を出すイリヤは、決して、私が凛のサーヴァントであることを止めてないことを理解している。
 だから、その声に寂しさが混じることはあれど、それを押し留めようとする強い気持ちを持っている。
 だが、それでも隠すことが出来ない不安があるし、その理由もあった。

(そうか、ギルガメッシュ―――!)

 あれから、たいした時間が立ったわけでもないというのに、どうやらあれほどのことを忘れてしまっていたらしい。
 ギルガメッシュの存在は無視できることではない。
 理由は判らぬが奴はライダーのマスターと行動を共にしている。
 得意げに話した声を思い出す。奴がイリヤを、その心臓を狙っているということを。

 バーサーカーを失った今、イリヤが奴に襲撃されて生き延びる確率は皆無に等しいだろう。
 いくら、イリヤがマスターとして優れていても。
 メイドの二人が、魔術に精通し、サーヴァントに匹敵する膂力を持っていたとしても。
 奴の存在はそれ以上、サーヴァントという枠に当てはめても尚強大なのだから。

 私が凛の元へと戻る、それは確定だ。
 彼女に勝利をという誓いは変わらず私の胸にある。
 イリヤはすでにバーサーカーを失っている。だからといって、教会に身の安全を得るために赴くなどきっとありえないだろう。
 何より、教会とてギルガメッシュにしてみれば、何の痛痒も呵責もないだろう。
 何しろ、この世の全てが自分のものと思っている傲岸不遜な輩だ。
 その言葉には、英雄として―――王として認めるべき部分もあるのだが。

「イリヤ。貴女は、この城に残るのか?」

 イリヤに問いかける。
 彼女はその意味をすぐに悟ったのか。
 何も間違いはないというように、はっきりと意思を告げた。

「ええ。私には教会に行く意思はない。バーサーカーを失っても、私の場所は此処だもの」

「―――そうか」

 誰もが理解している。
 それは、座して死を待つことに変わりはないと。

「―――イリヤ。貴女も、私といっしょに来ないか?」

「え?」

「何を! アーチャー、何のつもりですか?」

 イリヤが私の言葉に目を見開き、セラは眉根を寄せて、近づいてきた。
 その瞳は、何を馬鹿なことをと、憤激に満ちている。

「私が、アーチャーといっしょに……?」

イリヤが呆然と呟く。

「私が凛のサーヴァントであることに変わりはないが。だからといって、イリヤ。貴女を放っておくことは出来ない」

 それは偽りない私の気持ちだった。
 確かに、自分の主も満足に守れないのに、欲張ろうとする私は、偽善にしか映らないだろう。
 だが、それでも、イリヤを置いておくことを、耐えることは出来そうになかった。
 共にいたとて、何も変わらぬかもしれぬとしても。

「幸い、衛宮士郎の屋敷には空き部屋が余るほどある。イリヤだけでなく、セラとリズがいっしょに来ても大丈夫だろう。凛や衛宮士郎は、私が何とかするから」

「―――いいの?」

「私が申し出たのだ。そうしてくれると、私も嬉しい」

「お嬢様!?」

 冷静沈着を絵に描いたようなセラが、その細い体からは考えられないほどの声量で声を荒げた。
 しかし、それも無駄とイリヤの顔をみた彼女は肩を落とす。

「分かりました。お嬢様が決めたことですから、私も従います。ですが、アーチャー」

「――――――」

「リズではありません。リーゼリットです。安易に略さないよう、お願いします」

 思わず沈黙する。
 確かに、私はイリヤとは懇意かもしれないが、セラとリズに関しては昨夜話をしたばかりだ。
 セラの性格からすれば、私が取ったような態度は、馴れ馴れしすぎるのだろう。
 礼を欠いていると見られたかもしれない。

「ふーん。セラ、それって僻みかしら? 自分が愛称付けられる名前じゃないからって」

「うん、イリヤあってる。セラ、一人だけナマエみじかいから」

 だが、一人納得を終えようとした私を尻目に、イリヤとリズ―――リーゼリットがセラに噛み付いた。
 イリヤは猫のように目を細めて、楽しそうに。リーゼリットはあくまで淡々と。

「―――!? リーゼリット、何時の間に!?」

「もういっちゃうの、くらいからいた。気がつかないの、セラだけ。けっこう鈍い」

「それは、貴女が気配を消すなど―――」

「関係ない。おはよう、イリヤ。おはよう、アーチャー」

 セラをあしらって挨拶するリズに二人して挨拶を返した。
 ちょっと無視された形となったセラは、コホンと咳払いすると。

「それより、アーチャー。何時までそんな格好でいる気ですか? 容姿がいくら優れているといっても、それではむしろ、無粋を極めているとうものです」

 そうして、セラは鏡を見ることを催促する。切り替えの速さはたいしたものだ。
 それに、笑い嘆息しながらも、言われたとおりに鏡をのぞいた。

「む――――」

 思わず黙り込む。
 服装は、黒いドレスだ。別段おかしなところはない。いや、何か足りないような気もするが、きのせいだろう。
 口元を見る。涎の跡が付いているでもなし。問題ない。
 瞳。濁ったような金の瞳は、我ながら自分の意思をはっきりと宿しているように見える。けっして、涙の跡などない。
 そして、―――髪の毛。くすんだ金髪は、その……。

 爆発していた。それはもう、盛大に。
 何で誰も笑わなかったのか、というくらいに。
 仕方ないではないか。私の髪は、編みこんでなどいないのだから、こういう事態もありえることだ。
 と、自分を納得させようと試みる。
 しかし―――

 こんな状態で、さっきのような言葉を紡いでいたのかと思うと。
 やっぱり、少し、堪える。
 先のセラの言葉の意味はこの事だったのか……。後悔先に立たず。

「そっとしてさしあげましょう。誰しも、このような可能性からは無縁でいられないのです」

「なるほど。セラが、安物のケーキを食べてるの、見られるのと同じ」

「り、リーゼリット!?」

「うん、そうだね……。もう少し、早く言ってあげればよかったかな」

 三人の私を見る目が、同情の視線が痛い……。
 必死で、イリヤに道具を借りて私は、頭を正そうとするが。
 その際のイリヤの瞳も、あまりに無垢に過ぎるリズの瞳も、どちらかというと、自分の弁明で必死なセラの瞳も。

 むしろ、盛大に笑ってくれた方が、私にとってはまだ、助かったのだ。

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