interlude
五分だけ待ってから、というイリヤスフィールの提案が一番待ち遠しいと思っていたのは、どうやら私だったらしい。
凛に頼み込んだにも関らず、私はきっかりかっちり時計の針が五分たったのと同時に立ち上がってしまった。
その時に軽く、皆に笑われてしまったのはそのためなのだろう。
もちろん、笑われて嬉しいわけはなく、恥ずかしさで表情を崩しそうになったがなんとか堪えた。
笑われたことに憤っているわけではないが、とにかく皆が立ち上がるのも待たず、ひとりで歩き出す。
皆から笑いが漏れたのも、どこか、アーチャーが戻ってきてくれたという事実に対して、安堵にも似た気持ちがあったためだろう。それが、いくらかの余裕に繋がる。笑われることはどうかとしても、そのことは嬉しかった。
ただ、まだ解決したわけではないと、握り締めた手に力を込め土蔵へと向かう。
アーチャーは、土蔵に入ってから動いてはいなかった。
本当は、気がついてからすぐにでも行きたかった。
今日一日アーチャーを探しても、結局何も収穫がなかったのだから。
紅い姿を脳裏に浮かべる。記憶にあるよりも随分と悲惨な姿だったが。
はたして、彼女とは異なるアーチャー。
十年前、と言っていいのだろうか。あの黄金の王とも違うアーチャー。
凛の、パートナーだった、だけどここでは違うサーヴァント。
彼の言葉がなければ、今でもこの町を探し歩いていたかもしれない。
それが、この屋敷に戻って待とうと思ったのは、彼が凛のサーヴァントと言う点で同じだったことに僅かな期待を感じてしまったからなのかもしれない。
つまり、彼が、アーチャーを知っているということを。
紅い装束。私が知らぬ間に姿が変わってしまってはいたが、その前の姿は確かに同じような赤い装束だった。
そのことが、二人のアーチャーの関係を示しているような気がしてならない。
そして、彼の言葉通りに、アーチャーは戻ってきた。
もちろん、アーチャーも私の気配に気がついているはずだ。気がついてないわけがない。
事実、敷地に侵入する際、彼女は僅かに躊躇するような気配を見せていたのだ。
それでも、結局彼女はこの屋敷に戻ってきた。
だが、それはまだ帰ってきたわけではなかった。
帰ってきたなら、こんな戻り方はしない。
きっとアーチャーにはまだやることが残っているのだ。
だから私は、僅かだけだけど、アーチャーを待つことにしたのだ。
土蔵の扉は閉まっている。
どうやら灯りを燈していないらしく、闇に包まれているように見える。
空に浮かぶ月が、僅かに顔を覗かせ、庭を照らしていることによって益々、土蔵の中は暗いのではないかと思った。
なんとなく一歩が遠い。重い。
私は、アーチャーのところまで歩いて何を言おうとしているのだろうか。何をしようとしているのだろうか。
今更ながら、一人で先行していることが心細く感じた気がして唇を軽く噛む。
隣にシロウがいるだけで、自分の気持ちは、今とは違っていたのだろうか。
剣をとって戦うことと比べ、何と難しきことなのだろうか。
弱気になった心が、歩幅を小さくしているような気がして、両手を強く握った。
「そうやって、力むこともわかるけど、少しくらい肩の力を抜いたら?」
そうして、土蔵の扉に手をかけようとした私の背に、凛の言葉がかけられた。
凛だけじゃない、シロウもイリヤスフィールも私の後ろに立っている。
ただ、それぞれが皆、程度の差はあれ、私のように緊張していることが、その気配からわかった。だから。
「そう、ですね。逸っても、この場合は仕方ありませんし」
一度深く息を吸って吐く。そして、扉には手をかけずに振り向いた。
アーチャーに動く気配はない。
「今から、開けます。ですが、その前に――」
「ああ、皆まで言わなくてもいいわ。私たちも力を抜けってことよね。うん、大丈夫。私はいつもと同じ」
そう言いながらも、僅かに視線が厳しい凛。
「私もよ。リンはやせ我慢なんでしょうけど、私は本当に普段通りなんだから」
凛に勝ち誇りながらも、少し舌が回っていないイリヤスフィール。
「俺も、大丈夫だ」
シロウの言葉はそのまま、どこか硬い。それ故に格好の餌食となる。
「衛宮くん。少し硬いんじゃないかしら?」
「ほんとほんと。それじゃあ、アーチャーも怖がって、出てこなくなるじゃない」
凛はともかく、イリヤスフィールの言葉はすこしひどい。だが、こういう軽口を交わすのも、悪くはない。
だが、今朝のアーチャーの雰囲気は、逃げ出した彼女の危うさは、イリヤスフィールの言葉にあてはまるかもしれない。
とにかく、私達の会話は聞こえているだろう。それなのに、何の気配の変化も感じられないのは。
まあいい。
会わずにあれこれ考えてもしょうがない。
それに、私も含めて皆随分とリラックスできた。
「開けます」
私は短く、そしてはっきりと宣言すると、扉に手をかけた。
扉が軋む。冬の寒さを象徴するかのようなその音は、私の胸を熱くする鼓動を抑えるには到らない。
扉に触れる手の平は、冷たさを脳に知らせる。サーヴァントであるが故に、冷たいことが不利益になるわけではないが、それでも、その感触は熱い胸を感じる頭を冷やす気がした。
暗い土蔵の中へと足を進める。
なんとなく、ある種の予感を感じながら奥へと足を進めた。
そして、私はどこか覚えのある場所で、足を止めた。
時間にして僅か数秒。そうだというのに、どこか永遠にも似た時間が流れていたように感じた。
暗い土蔵に、月光が差す。
青白く光るそれが照らすのは、座り込んでいる少女。
格好は黒を基調とした、というよりは黒一色なのだが。声もなく私を見上げている姿は、私に一つの光景を思い出させた。
そう、あの時も、そして今回も私はこう言ったのだ。
「――問おう。貴方が、私のマスターか」
言ってしまってからはっとする。心の中で呟いたはずのそれが、言葉に紡がれてしまったことに。
そのことに驚き、反射的に手を口元に持っていこうとして、それが果たされることはなかった。
アーチャーが私を見つめていたから。その双眸に射抜かれてしまったから。
私もアーチャーも、言葉なく見つめ合っている。
その静寂が、あの夜と同じように感じてならない。
シロウたちは、私が不意に発した言葉に僅か声をあげたものの、それからは黙って見守ってくれている。
何故、召喚の際の言葉を発したのか。一度目と二度目の言葉はまったく同じ。その時に他意はなかった。
何しろ、その時の私は、一度目を覚えていなかったのだから。
なら、何故今、私はこの言葉を発してしまったのか。
私のマスターはシロウだ。かつての別れで、言葉を交わしたシロウと別人だとしても。
契約を交わした事に、何の偽りもない。
彼の剣となると、運命を共にすると誓った。
その誓いは一度その繋がりを破られても変わりない。だからこそ、私はシロウの場所にいる。
なら、何故、私はこんなことを言葉に乗せてしまったのか。
土蔵を埋める静寂の中、僅かな風の流れを耳がとらえる。
地上は安らかでも、高き空の風は強い。流れる雲は月を遮ろうとして、敵わず通り過ぎる。
あの時もその時間は僅かだった。
風の強い夜。邂逅した際の僅かな時間、雲が風に流れ月が顔を覗かせていた。
私とアーチャーを照らす光に変わりはない。
この時間が一瞬なのか、それとも長い時間が流れているのか。
アーチャーを見る瞳の力は変わらずとも、胸の奥の気持ちはそれを裏切るように、揺れていた。
セイバーの瞳を、その姿を瞳に映して、心だけが他の場所へと旅立つ。
体を纏う夜気は変わらず、それを蹂躙する獣の如き殺気が迫る。
迫るのは稲妻の切っ先。それが稲妻である以上は、人にそれを避ける術などない。
なのに、それがひどくゆっくり見えたのを覚えている。
本当なら見えるはずもない神速の一撃。
自分の心の臓を、再度貪ろうと迫る、朱の魔槍。
だから、その時出来たのは、その事実に諦めるわけでも。
無理とわかっていてそれでも避けようと試みるわけでもなかった。
ただ、吼えただけ。
一度ではなく二度。何も出来ずにただ死ぬことを、死んでしまうことに腹を立てたのだ。
意味もなく、再び死んでしまうことを。
その地で、嘆息する。
死ぬことを、意味がないと考えたことを。
幾多の火を経験することで、無価値なものを知り、無意味なものは無いと知った。
胸に手を添える。そこには、決して手放さなかった赤。
ただ、死んでいくだけのものだったオレを、救ってくれたものの残したもの。
あの死も、意味はあったのだ。
意味がないなんて、そんなものはない。
価値がないことなんて、数多く経験した。
それでも、今ある俺に価値がなくても、意味は確かにあったのだ。
それがわかるようになったことも、始まりがなければわからなかっただろう。
故に、不条理な死を突きつけられたことに、意味はある。
それは運命の始まり。この身を鉄火場へと投げ出す最初の物語。
無残に、無造作に絶たれようとした命は、これも人に届かぬ刃にて救われた。
稲妻を砕くのは魔法の煌き。刃が描く月の光。
兇刃を退け、彼女は目の前に降り立った。
時間は、この時だけ永遠となり、この場所は彼女に習うが如く静謐になった。
この光景を忘れない。この胸の赤を忘れない。
駆け抜けた夜を忘れても。潜り抜けた戦場を忘れても。
忘れはしない。
助けになると誓った。
まだ、この赤を返してはいない。
なら、やるべきことは一つだろう。
帰ってくる。
長いようで一瞬だったそれは、何を考えたかさえ、残してはいない。
冷たい地面に手を突く。
地面に触れる手の平に、力が込められる。
寸分変わらぬ光景に力が入る。
だから、この光景を。覚えている。
たとえ、この身が地獄に落ちようとも。たとえ、記憶を失おうとも。
この光景を、忘れるわけがないのだ。
オレは、■■■■■■なのだから。
今、抱いたものが、すぐに消え去るものだとしても。
いつからか私ではない――いや、ここではない何処かを見ていたかのような、そんな風に見えていた瞳が定まっていく。
意志のない瞳に、意志ではない何かが宿る。
それでも、どこか彷徨うような瞳の暗さに変わりはない。
爛々とした輝きを持っても、意思そのものは見当たらない。
だけど、それを裏切るように、アーチャーはゆっくりと立ち上がった。
暗い瞳に意志はなくとも視線は定まっている。
何処か呆けたように、僅かに開かれた口に違和感を覚えても。
その瞳だけは、不可解ながらも確かな力を持っている。
アーチャーは鎧を纏ってはいない。故に、その足は音もなく踏み出された。
アーチャーの踏み出す足は、まるで幽鬼のように頼りない。
背を丸めた姿は、神に懺悔する殉教者の如く。
緩慢に、力なく歩を進める。私との距離が一歩、また一歩と縮まっていく。
私たちの距離ははじめ五歩。アーチャーの足が三歩目を刻んだとき、その目に映っているのが私ではないことに気がついた。
アーチャーは、私を見ていない。
では、一体誰を……。
と、思う間にまた一歩、アーチャーは足を進めた。
これで、私との距離は僅かに一歩。
私がいくらアーチャーを見つめようと、彼女は私を見てはいない。
それが、何故かひどく、収まらない気持ちを胸に抱かせて、微かに唇を噛む。
その間に、アーチャーの五歩目は刻まれ、私の横にその体は立っていた。
私は動かない。私は、動けない。
視線は、一瞬前までアーチャーの顔があったところに向けたままだ。
アーチャーの瞳の変わりに、土蔵の壁を射抜く。
そしてまた一歩、アーチャーは足を踏み出し私を置き去りにする。
私の胸にある気持ちが一体何なのか。
それを解決できず、ただ一点を見つめ続ける間もアーチャーは歩を進める。
「アーチャー、あんた……」
「なっ、え――?」
凛の、躊躇うような声とシロウの驚く声で、私はやっと、壁を見続け固まり続けた自分の体を振り向かせた。
私に何の反応もせず、ただ、通り過ぎてしまったアーチャーは。
私の後ろにいた凛にも、イリヤスフィールに対しても反応を見せなかったのか、ただ、一番後ろに立っていたシロウを、シロウだけを見つめていた。
アーチャーは、呆然と見つめる凛と、どこか悠然と構えているように見えて実はそうでないような不思議な表情で、一言も声を発しないでいるイリヤスフィールの間を抜けて、シロウへとその足を進めていた。
アーチャーがシロウの正面に立つ。手を伸ばせば簡単に触れる距離。
私と同じくらいの背丈であるアーチャーは、自然シロウの顔を僅かに見上げる形となる。
シロウの顔を正面に。僅かに頤を反らして、アーチャーはその右手をシロウへと伸ばした。
「あ――」
「待ちなさい」
私の口から漏れたのは、何なのだろうか。何の気持ちを言葉に乗せたのか。
思わず、シロウへと駆け寄ろうとした私を、イリヤスフィールの手が止めた。
ともすれば、イリヤスフィールを傷つけてしまいそうになるほど、強張っていた体を何とか押し留める。
焦燥が身を包み、何故止めたのかと声を荒げそうになって、アーチャーの行動に目を奪われた。
気がつけば、アーチャーの両手はシロウの肩にかけられている。
シロウは、その顔いっぱいに動揺を表していたが、その足は硬直したように大地へと根を張っている。
そして、それは足に限らず彼の体全て。瞳においてすらも微動だにすらせず見開かれていた。
そのシロウの顔に、アーチャーの顔が近づいていく。それも鼻と鼻が、唇と唇が触れ合いそうになるほどの間近に。
驚愕を表しているシロウの顔が、アーチャーの頭で隠れていく。
その行為が何を意味するのか、考える暇もなく、ただ、そのこと自体に対して自身の感情を押さえられず。
今度こそ私が声を上げそうになる瞬間に。
アーチャーの顔が、シロウの顔を避け、それを支える首筋へと目標を変えていた。
「え?」
その声は私だったのか、それともシロウだったのか。どちらでもなかったのか。
アーチャーの顔が、シロウの首筋にもたれかかる様に落ちた。
自然、隠れかかっていたシロウの顔も、私の位置から伺えるようになる。
「っいっ!?」
その瞬間、今度はシロウのものとわかる、悲鳴のようなものが上がった。
「シロウ!?」
その時には、私はイリヤスフィールをすり抜けるように避けて、シロウの背後へと回っていた。
「あ、アーチャー? 何を?」
そこで目にした光景に、心底目を丸くする。
それは凛にしても、イリヤスフィールにしても、程度の差はどうあれ驚いていることに変わりはなかった。
アーチャーはシロウの首に噛み付いていたのである。
私の言葉に対する返答はなく、ただただ、アーチャーはシロウの首筋に歯を立てている。
思わず、それを止めようとして、噛み付かれている本人たるシロウに止められた。
視線を背後に回った私へと向け、アーチャーに噛み付かれている首筋とは逆の方の手で、私を止める。
たいした力で噛み付いているわけではないのか、シロウの顔に苦痛の色はない。
しかし、それだとてアーチャーの口元から僅かに赤い色が見えることに間違いはなかった。
我慢強い彼のこと、本当の痛みなど表情からだけで察することは難しい。
「血を、吸っているの……?」
凛の声が擦れて響く。
凛の言葉が正しいのかは、まだわからない。
確かにシロウは血を流してはいるが、それが吸血されてのものなのかはわからない。とはいえ、ただ噛み付いている、という意味もまったくわからない行為だ。だとすれば、凛が言うようにアーチャーの行為が吸血であると、判断するしかないのか。
頭を振る。凛の言葉の妥当性など本当はどうでもいい。私が否であると願っているのは、そのような意味ではない。
もう一度頭を振って、アーチャーへと視線を定める。今は、それを認めるしかない、のか。
彼女の視線は伏せられ、自身の行為に没頭している。
だが、それにしてはアーチャーの吸血行為はお粗末だ。
アーチャーも私も、鋭い牙など持たない。
故にアーチャーは、シロウの首筋を食い破るかのごとく、深く噛み付いていたのである。
シロウが止めなければ、すぐに引き剥がしていただろう。事実、そうする寸前だった。
そして、そうしなければならないはずだった。
だが、実際には歯を食いしばりながら、悲鳴を上げまいとするシロウを前に、ただその光景を見ているだけしか出来ない。
凛もイリヤスフィールも、シロウが拒絶したことで、止める気はなくなっているようだった。
ただ、私と違い、冷静さを欠いていなかったのか、二人は二人とも、アーチャーの行為が何なのか、理解に到ったらしい。
「まさか、アーチャーは――」
言いかけてから凛が口元を押さえる。
その視線はアーチャーから私へと向けられて、すまなそうに細められ。
「そうね。アーチャーはシロウから奪っているんだわ。それも単純な“血”じゃないモノを」
イリヤスフィールが、凛が言わなかったことを、言葉にした。
「え――?」
言われて、初めて気がついた。そして、それが理解できなかった。
サーヴァントは霊体である。それは今の私も、そして、その前の私も変わらない。
そして、それはアーチャーもサーヴァントである以上は、逃れられない事実だ。
故に、私たちが力とするもの、魔力とするものは、第二、第三要素となる。
それを得るために、ライダーは学び舎に結界を敷き、キャスターは柳洞寺からそれを吸い上げた。
自身の魔力とするために。
しかし、シロウが魔力を、魂を吸い上げられているのなら、何故、私がそれに気がつかないのか。
シロウ自身の魔力は、私が知っているそれとはまったく別物であるかのように違う。
無論、私やイリヤスフィール、凛と比べれば劣ることは否めないが。それでも、並みの魔術師と比べれば十分すぎるほどだった。
それ故に、今回の私は、能力値そのものは前回と同様だとしても、その持久力は比べ物にはならない。
そして、再び契約を結んだ、今のシロウからは。
アーチャーから魔力を抜かれることによって生じるはずのものが、感じられなかった。
「馬鹿な。シロウの魔力は減っていない」
だから、自身が感じることの出来る事実だけを、ただ言葉にする。
サーヴァントとしての範囲で理解できるシロウの状態は、まったく問題がない、としか言いようがない。
「でも、事実として、アーチャーはシロウから“何か”を吸い上げているわ」
信じられないと、イリヤスフィールの言葉に眉を顰めながら、シロウへと向ける視線を強くする。
少しでも、アーチャーが行っていることを見極めるために。
「あ――!?」
そして、今になって、シロウが持つ魔力に対しての違和感に気がついた。その驚きが、吐息となって漏れる。
私が漏らした声には、凛とイリヤスフィールは気がつかなかったのか、何の反応も示してはいない。
それに、何故かほっとしながらも、脳裏に浮かんだことを整理する。
シロウの魔力は、かつて最後の戦いに臨んだシロウよりも明らかに多い。
だが、それを生成していたのは本当にシロウだったのか。
確かに今のシロウは、私が知らぬ間に、かつての彼と同様に投影魔術を用い、魔術師としての力を示しつつある。
だが、何故、召喚された直後においても、シロウの魔力は今と変わらぬ量を持っていたのか。
記憶になかったときとは違い、今ならその違いに気がつけた。
自分が召喚された直後の、凛とシロウの会話を思い出す。
だが、あの時初めて、凛はシロウが魔術師であると知ったのだ。同じ学び舎に通いながらも凛は知らなかった。シロウの魔力に、気づかない方が不自然だというのに。
なら、シロウの魔力は、聖杯戦争が始まる時と、私が召喚された時と、そう変わらない時期に得たものなのだろうか。
自分の手にはなく、しかしシロウが確かに持っていると感じる鞘の可能性を即座にきる。
シロウは使い手ではなく、私が現界しなければその不死性は発揮できない。そもそも、鞘が原因なら前回もパスを正常に繋げた際と変わらぬ状態のはずだ。
魔術の回路は、開いてなかったはず。前回と同様間違った方法を続けていたのではないか。
なら、回路を開かずして何故、前回の数倍たる魔力を保有していたのか。
いつのまにか、アーチャーよりも、シロウのことに頭の中が占められていることに気がついたとき、目の前の光景が僅かに変化した。
シロウに噛み付いていたアーチャーが僅かに呻く。
実際に血を飲んでいたかは定かではなく、また、絶対にシロウから魂を啜っていたわけではない。
ただ、“何か”をしていたアーチャーの視線に、意志の光が灯っていた。
傍目からも判る、アーチャーの変貌に私だけではない、シロウを除いた三人の顔に、何らかの表情が浮かんでいた。
そのアーチャーの、光が戻った瞳に困惑の色が混ざる。
それが、何に対してのものなのか、私たちが判別する間もなく。アーチャーは――
「なっ!? っぁあああああ!!!!!」
「あっ?」
今までに類を見ないほどの驚きを表情に表し、つい先ほどまで噛み付いていたシロウを、力いっぱい突き飛ばしていた。
慌てて、シロウが飛んでいった土蔵の扉から外へと走る。
アーチャーでありながら私と同等、いやそれ以上の膂力を誇る彼女の力だ。
何とか壁にぶつかる事だけは免れたとはいえ、突き飛ばされた際にシロウが受けた衝撃は生半可なものではない。
事実、庭に倒れているシロウの肩は、何処か不自然なほどに、ズレていた。
だが、シロウの中身が、何かされたような形跡は感じなかった。それにほっとしつつ、シロウに声をかけた。
「大丈夫ですか? シロウ」
「――より、―――――は」
痛みに、うまく声が出せないのか、私に何かを伝えようとするシロウの声は聞き取りにくい。
それが、私の顔に出てしまったのか、シロウが微かに笑うと外れた肩も省みず、その手で土蔵の方を示した。
震えながらも必死なその指先に私は頷くと、シロウを横抱きに抱え土蔵へと走る。
そこには、今尚動揺収まらぬ、アーチャーの姿があった。
「な、ななななな、わ、私は一体何を! 小僧に! 何を、何故だ何故だ何故だ何故何故何故……」
「馬鹿! 落ち着きなさいアーチャー。そんなことしたって意味ないってわからないの!」
「だが、凛。衛宮士郎だぞ衛宮士郎。何故私が衛宮士郎にあのようなことをしなければならんのだ」
「知らないわよ。あんたがやったんだからあんたが責任持つのが筋ってもんでしょ」
「し、しかしだな、凛。私には何故このような、こ、このようなことをしてしまったのか皆目検討が」
「つかないっての? だけどね、あんたがしたことは間違いようのない事実でしょ。だったらそれを受け入れる他に、なにかあるわけ?」
「いや、それは、まあ、ないのだが」
「だったらいいじゃない。別に唇を奪ったわけでもなし。たいしたことじゃないでしょ」
「む、そういう意味ではなく、な、生理的に駄目だというか、そもそも唇などなら一刀のもとに……」
腕の中でシロウが落ち込んだのがわかった。今のアーチャーの言葉に、傷ついたのだろうか。
そして、もう大丈夫だからと、私から離れる。鞘の影響か、それとも私が気付かぬうちに肩を入れたのか。
シロウの体には、噛み傷も含めて傷は残っていなかった。
「あ〜、はいはい。あんたが衛宮君を嫌いだって言うのはいいけど、だったらもう少し落ち着いたらどうかしら?」
「まて、凛。君は何か勘違いしている。私は心から小僧を嫌いだと」
「またまた。ほんとにそうかしら」
「なんだ、その表情は。私が嘘を言っているとでも? 馬鹿馬鹿しい。はっ、私が嘘吐きだと。百歩譲ってそうだとしよう。だがな、私が衛宮士郎を毛の先ほども好ましいと思うことは、未来永劫絶対にない」
「何? じゃあ、すごい好きってこと? アーチャーったらずいぶんと大胆なのね」
どうにも止みそうにない争いに、だんだんと腹が立ってくる。
視界に映るものが、だんだんと、アーチャーと凛に絞られていき。
「二人とも、いい加減にしなさい!」
私はお腹の底から、大声を張り上げて二人を叱責していた。
口論を止め、きょとんとして私を見る二人に続ける。
「まったく、いつまでそのような不毛な争いを続ける気ですか。そもそも、アーチャー。貴女は、そんなことをする前にまずやるべきことがあるのではないですか?」
「ほんっと。いつまでも続けるんだもの。あきれちゃうわ。二人とも、レディには程遠いわね」
私の言葉に追随するが如く、イリヤスフィールも苦言をこぼす。
さすがに決まり悪くなったのか、アーチャーと凛は二人揃って顔を見合わせ、めいめい取り繕うように咳払いや、埃を掃う仕草をした。
「で、アーチャー?」
「む、確かに少々信じ難い出来事だったとはいえ、小僧を全力で突き飛ばしたのはやりすぎだった。すまん、セイバー」
「わかれば良いのです」
「ちょっとまて、それは少し違わないか? それに、謝ってるのは俺にじゃなくて、セイバーにだし……」
私は大仰に頷くと、シロウの言葉は黙殺して凛へと視線を向ける。
「凛も凛です。どうして、そんなに拘るのですか。貴女らしくないとは言いませんが、些か度が過ぎる」
「いや、その……あはは」
「そうよ。なのにリンったらだいたい……アーチャーが好きなのは、シロウじゃなくて私なんだから。ねぇ?」
口元を手にやって目を泳がせながら笑う凛に、イリヤスフィールが勝ち誇るように言う。
そして、その言葉尻を向けられたアーチャーは、僅か困ったような仕草で、イリヤスフィールを見つめていた。
「あ、いや。それは間違いないが」
困惑した顔で頷く姿に、嘘は感じられない。
「それで、アーチャー。貴女、本当は最初に言わなくちゃいけないことが、あるでしょ?」
凛が、アーチャーの真正面に立ち、私たちを代表するかの如く、宣告した。
「ああ、そうだったな」
何を言われたのか、それがどういう意味をもつのか理解したのだろう。
幾分わたしより太く見える眉を僅かに寄せ、苦笑いをこぼす。
そして一転、 僅かとはいえ、柔らかな笑みを口元に見せると、アーチャーがそれに答えた。
「ただいま」
ここから凛の表情は見えない。
ただ、アーチャーの現状に対して、一番何かを感じていたのは、やはり凛だったのだろう。
アーチャーの言葉に、一瞬、肩が震えたのがわかった。
「おかえりなさい」
それでも、その口から出たのは、常と変わらぬ響きを持った声だった。
ただ、それはどんな表情で放たれたのか。アーチャーは、僅かその笑みを深くすると、凛に近づく。
「ずいぶんと心配をかけた。また、よろしく頼む、凛」
「馬鹿ね。心配かけすぎよ。返済できるの?」
「――努力しよう」
ただいま。その言葉が、私にとってもひどく、嬉しい言葉だった。
未だ、アーチャーに対して覚える、好意の感情は失われていない。
今は、シロウのことにその比重が傾きつつあるが、こうしてまた共闘できることが、嬉しいことに変わりはなかった。
「浮かれるのはいいけどそれよりも、早くしないと時間切れになるわよ」
だが、イリヤスフィールの言葉に、アーチャーを除いた全員がはっとする。
「契約しないと、アーチャー、もうすぐ消えちゃうわ」
そう、アーチャーの存在感は希薄に過ぎた。魔術に関るものが、常のアーチャーを知るものなら、気がつけぬことこそ無理だというが如く。そして、おそらく鎧姿でないのも……。
「もしかして、もう限界が近いのか?」
「私の単独行動のスキルはBだ。正確には契約が切れた時間はわからんが、もって二日が限界だ。今すぐ消える、というわけではないのだろうが、時間がないのも確かだろう。聖剣の発動も無茶といえば無茶だったか」
シロウの言葉にアーチャーはあっさりと自身の状況を白状する。シロウはその言葉を受けて考えるそぶりをすると。
「なら、遠坂。ここを使えよ。アーチャーが最後にここに戻ってきたんだ。理由は話してくれそうにないけど、やっぱり何かあるんだろう。いいよな、アーチャー」
凛、そしてアーチャーに言葉を発した。そして、目だけで私にも。
シロウの言葉にアーチャーは答えない。だが、辞退する雰囲気は感じられなかった。
黙るアーチャーを承諾の意ととったのか、凛が言葉を返す。
「いいの? ここって衛宮くんの……」
未熟とはいえ、ここはシロウの工房に違いないからか、凛の声に僅かな躊躇が混じる。
「ああ、かまわない。セイバーもここで召喚されたんだ。契約もな。他のやつらなら気に入らなかったかもしれないけど、遠坂とアーチャーなら、かまわない」
私も微かに頷き肯定の意を示す。
「ありがとう」
契約とはいえ、たいした儀式を必要とするものではない。
私たちがいることで、何か問題があるわけではない。
ただ、こんかいのそれは、二人で行うべきだと、私たちは皆感じていたらしい。
「それじゃあ、私たちは行きましょう。もう、眠くてしょうがないわ」
イリヤスフィールが先までの態度とは一変して、心底眠そうな表情を見せる。
それに私とシロウは頷くと、土蔵の扉へと足を向ける。
話すことは、この後でも十分出来る。サーヴァントたる私たちは、魔術師以上に昼夜関係ない。
すでに、ほとんど眠りかけて、シロウにおぶさられているイリヤスフィールに、僅か謝りながらも。
私はこの夜、アーチャーと話す未来に心奪われていた。
凛とアーチャー。主従たる彼女達。話すことも少なくはないだろう。だが、それも永遠ではないのだ。
まだ、夜は長いのだから。
土蔵から微かに、凛が告げる言葉が聞こえていた。
interlude out
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